講演 「条例のある街 〜千葉県からの報告」 2011・6・4 於大分市アイネス 毎日新聞論説委員 野沢 和弘 千葉県障害者差別をなくすための研究会座長として「障害のある人もない人も共に 暮らしやすい千葉県づくり条例」制定にあたって中心的役割を果たした はじめに きょうは「だれもが安心して暮らせる大分県条例をつくる会」の結成総会にお招きいただき大変光栄に思っています。私は毎日新聞の記者をやっていますが、長男が知的障害と自閉症という障害を持った家族としてこれまで24年間過ごしてきています。この前、瓦礫と化した東北大震災の現地を回り、全国から来たいろんな障害者関係の支援者を取材しました。そしたら障害者の安否確認も全然できてないという。最初支援者が避難所に行ったらどこの避難所にも障害者がいないという。何故なら、被災して避難している所にいられない、暮らしにくいから結局、崩れかけた自宅に戻ったり、自宅の前の路上に車を停めてその車の中で何日も過ごしたり、或いは通所施設に家族ごとお世話になったり、親戚に頼って遠い所に疎開したりして今、かろうじて暮らしているのだという。その話を聞いて私は、大変な状況に一番しわ寄せになる人たちのことを社会全体が包んでいくような、そんな社会にして行かなければいけないと改めて思いました。 私が住んでいる千葉県浦安市も液状化があって10日ほど断水し、風呂も使えず隣の東京都内の銭湯にうちの2人の男の子を連れて行きました。そしたら自閉症の兄が慣れていないものだからパニック状態になって、更に高校生になったばかりの弟は恥ずかしがってバスタオルを巻いて湯船に入ったりするものだから非常に冷たい目で見られていました。ただそういう時にも隅でその様子をじっと見ていたお年寄りが「この子は障害があるのだな」とわかって自分の場所をズラして「ここ使いな」と言ったりしてくれました。やはり世間には白い目がありますけれども、私は人の情みたいなものを信ずるしかないのだな、白い目を避けている限りはやはりその相手に理解してもらえない。こちらからもっともっと社会の側に踏み出していかなければいけない。そういう中から本当の理解とか信頼とかが生まれてくるのだなと感じたりしました。 ○千葉が動き出す 堂本知事誕生と方策 千葉県は福祉が非常に遅れ、昔から保守的な地盤でゴルフ場とか産業廃棄物処理場ばかりをめざすような県で特に障害者福祉については大きな入所施設や大きな精神病院はあるが地域で暮らしていくような施設が殆どないような県でした。ところがそこに2001年の知事選で女性の堂本知事が初当選したのです。堂本新知事は福祉の遅れにびっくりして2つの方針を打ち立てました。 その一つが、縦割り行政の弊害をなくそうと各分野を横断的にやっていく。同じ地域で暮らしているお年寄り、子供、障害者、特に障害者の中についても身体、知的、精神――各分野で細分化されている縦割り行政を横断的にした方がよいのではないか、その方が早いのではないかと。 もう一つが、政策立案段階から官と民が共同でやって行きましょうと。福祉の基本計画を作る時は、まず市民が作業部会を担ってやっていく。県庁職員は殆ど口を出さないでじっとその議論を聞いている。文案の細部まで市民がチェックして最後まで市民がやっていく。このやり方はほかの自治体や国でも、市民を招いて審議会を立ち上げ諮問、答申という形で従来からあります。しかし千葉県の場合は一番切実にニーズを持った人たちに参してもらっていろんな意見を出してもらおうではないかという事で、平日の夜やるのですね。そうすると関係す る県庁職員が夜まで市民の相手をして会議が終わっても、夜中までかかって資料を作るなど大変でした。 1年半かけて障害者福祉計画を作る 作業部会の最初はギクシャクしました。市民の側は行政側に質問や愚痴ばかりですね、或いはいかに自分たちが大変な思いをしてきたかという恨み、辛みみたいなものばかりでした。行政の人たちは後ろの席でうんざりした顔で聞いていました。 これではいけないという事で我々の側も質問をやめようではないかと。とにかく自分で意見を言おうと、自分たちで政策を作るのだという自覚を持とうと。そしたら段々良い意見も出るようになって、行政の人たちも辛抱強くそれに付き合ってくれて、少しずつ噛みあって行きました。 部会には知的障害者が2人参加していて最初はなかなか会議に対応できませんでした。難しい言葉と議論のスピードについて行けず自信を失っていました。その時、当時厚生省から出向してきた若い障害福祉課長さんがこれではだめだと思って会議の資料にルビをふりました。その課長さんはまだまだだめだというので会議の開かれる前の週の日曜日に自ら資料を抱えて知的障害者の住んでいるグループホームに赴き、マンツーマンで4時間ぐらい時間を掛けて予習をしたそうです。そうしたら彼らも理解が深まり自信をもつようになって、何とか自分たちも頑張らねばという事で良い意見を沢山出すようになりました。我々他の委員たちも非常に刺激されて、いつも彼らの存在を意識しながら発言し、どういうふうに受け止められているだろうか絶えず意識していました。 千葉県条例案作成のきっかけ 1年半後に分厚い障害福祉計画ができました。その中で、ほんの数行ですけれども-----国が障害者の差別禁止法を作らないのであれば千葉県が独自に条例を作ろうじゃないかと盛り込みました。 答申を受けた堂本知事は計画案から4つ優先的に取り組みましょうという事になり、その中の一つが条例づくりだったのです。その時の知事の意向としては障害を持った本人やその家族を中心にしてじっくり、時間がかかってもいいから条例原案をゼロから手作りで作ってもらいなさいという指示だったそうです。 ○「研究会」を立ち上げ 800超える事例〜さまざまな“差別の怒り”や“声” 堂本知事の指示を受けて、県障害福祉課は差別をなくす条例をつくりたいので「研究会」を組織する、そこに参加したい人は申し出てくれと「一般公募」を掲げたんです。障害福祉関係者、企業関係、労働関係などかなりの人が手を挙げてくれました。条例づくりの発案者が私だったものですから私が座長を引き受けました。ところが大変でした。最初は自分たちの障害がいかに大変だったか、いかにひどい目に会ったかを、これでもかこれでもかと出すわけで議論にはならなかった。ほかの委員たちは下向いて黙って耐えているというそんな感じで非常に殺伐とした空気でした。なかなか議論は進まないし、中には冷ややかに見ている人もいました。「こんなに豊かな時代になったのに差別なんか一体どこにあるのか」「そんな観念的なことをやっていてもこの世の中誰も注目してくれないのではないか」と言われました。 それではということで実際に障害を持った本人や家族がどんな差別を受けているのか聞こうじゃないかということで、「差別について教えてくれ」と県民に声をかけたのです。HPでも呼びかけました。最初は集まりませんでした。何なのだろうか、差別なんかないのかなあと最初思ったんです。 ところが違うんです。――“差別”と最初に言ってしまうと、悔しい思いを一杯してきた人たちにとってそれが果たして”差別“なのかなあとハードルを自分で作ってしまうんです。次に「差別かどうかわからなくてもいい、とにかく腹が立ったこと、悲しかったこと、悔しい思いをしたこと、何でもいいから教えてください」と・・・。 みんな、あるんです。当たり前ですよね。そんなこといちいち覚えていたのでは日々の生活が出来なくなるので忘れるんです。或いは記憶の奥に閉じ込めているだけなんです。もう一杯でてきました。気がついた時には全部で800いくつかの事例が集まりました。それを教育、福祉、医療、労働など分野ごとに分類して我々29人の委員がひとつひとつ、差別といえるかどうか、なぜこんなことが起きるのか、どうすればこんなことが起きなくなるか、解決できるのかなど皆で話し合いました。 さまざまな事例が寄せられました。千葉県ならずとも他の県でも、多分大分県でも沢山出てくると思いますね。 それを当事者が言わなかったり忘れたりしているだけなんですね。 統合教育をめぐる事例 日本では分離教育が原則で、障害児が学校に上がる頃になると教育委員会からどうしますかと言ってくる。 「うちの子は障害があるのですけど普通学級に行かせたいのですが」と言うと「お宅は普通ではないのだから」と差別的な一方的な言い方をされたり、「登下校だけでなく休み時間も付き添ってくれ」と言われ、その母親はワゴン車を校門の横に停めて一日中ずっとワゴン車の中で過ごし、授業が終わるたびにチャイムが鳴ると教室に出かけて行って障害のあるわが子の面倒をみているという例もあります。 また次のような例もありました。 障害が重い子がいてその子の通学について学校側から、「付き添いは登下校だけで結構ですが、他のお子さんに一切迷惑を掛けないという条件をのんで下さい」と言われ、その母親は自分の子は人に迷惑を掛けるタイプではないからと思いその条件をのんで通学できるようになりました。そしたらある日、そのお子さんが授業中、クレヨンを床に落とし隣の席の子が何気なしに拾おうとしたら先生がそれを見て、「やめなさい。(迷惑を掛けないという条件があるから)拾ってはいけない。」と言った。そしてその障害児のお兄ちゃんが同じ学校にいるのでクラスの子にお兄ちゃんを呼びに行かせて、連れて来させて「悪いけど君の弟さんが落としたのだから家族が解決して」と。その話を聞いて私は血が凍りつくというか逆流する思いをしました。自然に子供たちの間で助け合い、支え合う気持ちでやろうとしているのにそれを踏みつけて、授業をわざわざ中断して兄を連れて来させて、皆が見ている前でクレヨンを拾わされる兄の気持ち、そしてその兄の姿を見ている弟の気持ち。それを思ったらこんなこと何とかしなければと思いましたね。 ○「研究会、タウンミーティング」で学ぶ 町を歩いている時に突然知らない人から追いかけられて、胸ぐらつかまれていきなり殴られたという経験のある方いますか?或いは満員のエレベーターに乗り込んで言ったら、乗っていた人たちから嫌な顔をして一斉に睨みつけてきて早く降りろよ!出ていけ!と言われたのです。そんな経験のある人いますか?研究会の席上、ある聴覚障害者の方が発言しました。 聴覚障害者が道を歩いている時に、道を尋ねられたかキャッチセールスかに声を掛けられたのですが、彼は聞こえないものですから困ったなとスタスタと行って避けようとした。何でこちらが頭を下げているのに無視しているのかと因縁をつけられたのですね。それとか聴覚障害者が満員エレベーターに乗り込んでいくと重量オーバーのブザーが鳴ってドアが閉まらず、最後に乗って来たのはあなたなんだからあなた降りなさいよ!皆迷惑しているじゃないか、この音が聞こえないのか! と。 降りなさいと言っている人達は差別をしようと思ってやっているわけではなく、聴覚障害のある人は、どうして自分ばかりそういう目に会うのかもわからない。やられる側は何時そういう目に会うか分からないという独特の緊張感とか疎外感とか我々の思いも及ばない思いを持って生きているのだろうという事を、その時思いました。 エピソード@ 〜ある聴覚障害者Sさんの怒り 研究会には聴覚障害者は専用の手話通訳の人を連れてきます。それをSさんは我々に対して「どうしていつも私だけが通訳してもらわなければならないのか?何で私だけこういう負担をしなければいけないのか、これこそ差別ではないか、皆さんおかしいと思われないですか?」――どうして?あなたのための通訳で、あなたが必要としているのだから仕方がないでしょう、そんなに怒って言う程のことではないか、 その時思いました。 ところが私にも“そんな場面”がやって来たのです。 千葉県聴覚障害者連盟が条例について勉強しようとシンポジウムを開き、座長の私も出席しました。 本番前の打ち合わせで皆は手話で話し合い、私だけ分からず「手話通訳はいないのですか」とメモを渡しました。本番も近づき、どうして手話がわからない私の気持ちを誰も気づいてくれないのかと腹が立ちました。皆、あーそうか、そうかと言ってくれて。私は「ああ、そうかではないだろう」と思って。本番はさすが通訳がついてくれました。 発言者も含めて会場の200人ほどの人たちは皆手話がわかる人たちで、手話通訳者がいないと一人だけそのシンポジウムに参加できない人がいました。だれか----私でしょう。私はこの時、ハッとしたのです。 Sさんが「皆さんのための通訳でもあるのでは」と言われたのはこういうことだったのか。研究会の他のメンバー全員が手話が出来て理解できればSさんは手話通訳者を連れてくる必要はなかったのです。 手話通訳には二つの役割があって、一つは私のしゃべりを聴覚障害者に通訳することで、もう一つは聴覚障害者の手話による発言を話し言葉で通訳してもらえるという事です。 余談ですが、大震災後の3月13日から官邸の記者会見に手話通訳の画面が入りました。あれは枝野官房長官の肝いりで実現し、いま国会に出ている障害者基本法の改正案の中に手話は言語であると日本の法律で初めて盛り込まれたのも、枝野さんがどうしてもこの一文を入れろと説き伏せたからそうなんです。枝野さんのお子さんが小さい時に難聴になって奥さんと一緒になって手話を一生懸命勉強した時期があったそうです。やはり当時者性というものがどれだけ大きなエネルギーになっていくのかということですね。 どういう人たちがこの世の中で多数派を占めているのかによってコミュニケーションのルールとか、法律にしても慣習にしても町づくりにしても、多数派の人たちの都合のいいように作られている。そのために少数派の人たちが暮らしにくい思いをしているのかもしれない、それを多数派の人たち我々が気が付いているのかどうなのか。気が付いていながら配慮しているのかどうなのか。この辺がとっても大事ですね。ここに障害者と社会の間に起きている色んな差別というものの本質の要素があるのではないかと私は思いました。 例えば聴覚障害者の人数が多くなった場合には手話が一般のコミュニケーションの手段となり、手話のわからない我々はものすごいハンディとなりますよね。その裏表だと思います。 エピソードA 〜視覚障害者Tさんのジョーク 全盲のTさんがタウンミーティングの席上で「障害とは何なのか、根本的に考えてみましょう。障害者はどの町でも同じくらいの割合で生まれています。神様はそうしています。 ところが神様がイタズラをしてこの町で私のような眼の見えない人が多く生まれてきたらこの町はどうなりますかね。私が市長選挙に立候補すると、多分当選するでしょう。市長になった私は 福祉予算を倍増するには別の予算を削るしかない。いろいろ研究した結果、この町でゼロにできる予算を発見した。それはこの町の市役所とか公民館、警察とか公共施設にある明り、電灯をすべて失くしてしまう。我々、目の見えない人間にとって灯りというのは無駄なもので、何億円もの電気代を削り地球温暖化防止にも貢献できる筈で一般民家も普及させたいと「灯り禁止条例」をつくる。 そうしたら一般市民は怒って飛んで来るはずで「市長、何を考えているのだ。我々は家に帰ってろうそくで生活をしろというのか、ふざけるな!」と。 その抗議も織り込み済みで、何と答えるかといったら「皆さんの気持ちはわからないでもありませんが、一部の人のわがままには付き合いきれません。少しは一般市民(多数派を占める目の見えない人)のことも考えてみてはどうですか?」と・・・・。 この「灯り禁止条例」の話を聞いて私は目から鱗の思いをし、新聞記事にしました。Tさんにも喜んでもらえると思って、後日Tさんに会ったら機嫌が悪いのですね。何故だろうかと恐る恐る聞いたらTさん本人が真顔で「これで私は市長選挙に出られなくなったではないか」と・・・・彼一流のポーズでした。 研究会は午後7時から9時ごろ、議論が白熱すると10時ごろになり、そのあとは、よく駅の近くの赤ちょうちんに寄っていました。ある時、Tさんも一緒になりTさんの大ジョッキの飲みっぷりに感嘆しツマミを皿に盛ろうとしたら「そこに刺身があるでしょう」、匂いなど臭覚が鋭いのだなと思っていると「私は刺身には目がない」と言われました。目の不自由な人から「目がない」と言われると、こちらは言葉が出せない、差別をなくす研究会の座長に差別発言をするなんてシャレにもならない! そうするとTさんは嬉しそうな顔をしてニヤッとして「あなた今困っているでしょう」。私は「冗談なら冗談と言ってください」。すると「こんなことでいちいち困ってしまうと私とは付きあっていけませんよ」と本当に喜んでいました。 研究会では座長の私は「視覚障害のTさん」と紹介すると、Tさんは不愉快になり「私には千葉県四日市在住とか、社会福祉法人理事でも、50代男性でもいい」と言われ、その後の研究会では視覚障害のTさんという言い方はしないという暗黙のルールが出来たんです。 ある研究会が終わっての飲み会で、若いきれいな女性の隣に座ったTさんがその女性の肩に手を添えてビールを飲んでいるので「あなたは今、大変なことをしていますよ、世の中ではセクハラといって訴えられますよ。」 どんな反応を示すかなと思って言ったらTさんは「皆さんの世界はそうかもしれないけど、視覚障害者は触らないと分からない・・・」。私は「何を言ってるんですか、そんなときに“視覚障害者”を持ち出すなんて。あなたは普段は視覚障害者なんて言うなと言ってるくせに。スケベ親父みたいなこと言っちゃって。」すると彼は喜んで、喜んで「そうだろう、飲むとスケベ親父に見えるだろう!」 「ほんとうに、あんたって」・・・次の瞬間、みな黙りこんでしまって。-視覚障害者に見えたって ―― その時、だれもが親父だと見えたのです。 Tさんは、我々の障害に対する先入観とか錯覚を逆手にとって引きずりこんでくるような名人芸の様な事を 時々やるんです。いろんな障害のある人とこういう1年近く研究会や飲み会の交流をやると、私は以前は知的障害者や精神障害者が一番大変だと思っていたのが、そうではないのではないかと。 障害の持つ大変さとかはそれぞれ違うけれど自分自身のかけがえのない人生に於いては 皆それぞれ大変なものを抱えながら生きてきているのだなあと実感として見えてきたのです。加えて障害者は大変だと言うだけでなく我々が持っていないような世界観とかいろんな感性を持っている方々だなあという面白さがわかって来ました。 私一人だけではなくて研究会に参加しているメンバーそれぞれがわかり出したのです。 そしてさらに加えて、研究会に傍聴してきた県庁職員にも変化が起きたのです。 研究会には毎回、毎回県庁の職員が20~30人が傍聴してくれました。障害福祉課以外の分野の、例えば道路は土木関係、盲人信号は警察本部、就職は商工労働、教育は教育委員会など我々と同じように障害者が日常生活にかかわってくる各分野の職員が参加してくれました。最初は自分の障害がいかに大変かということだけを主張していた障害者団体代表のメンバー達が次第に相手の意見に耳を傾けるようになり進化していくプロセスを県庁職員達もリアルタイムで傍聴席から目の当たりにし、それぞれのセクションの職員達が障害福祉課だけの問題ではなく実は、自分たちの仕事でもあるということに気づきだしてくれました。これがとても大きかった。 いろんな立場の人たち、お互い知らない人たちが合意を目指していくときに、そのプロセスをいかに共有していくのか、ここに本当に“いのち”があるような気がします。 1年の間、毎日、いったい何時ゴールに達するのかという事を思い悩みながらやってきましたが、これは 回り道していく過程が、我々の目的でもあったのかなあと、今はそう思います。 「障害者だからといって甘えるな」 福祉だけでなく少しでも我々と縁のある団体の代表に来てもらって、飲食業組合とか中小企業経営者の代表など30数団体とヒヤリングをしました。 中小企業の経営者からいきなり「障害者だからといって甘えないでほしい。あなた達はすぐに雇え、給料を上げろと言う。それで会社が倒産したらどうなるのかあなた達は想像したことがあるのか。あなたたちが障害者の苦労を知ってくれと世の中にアッピールするのは大いに結構だし、言って欲しい。だけど世の中だって大変ではないかと、それをわかった上で言っているのか。自分だけが大変で可哀想などと言わないでくれ!」 自分たちのことを社会に理解してもらおうと思うのであれば、まず社会のことを理解しなければダメだと言いたかったのです。 この社長さんは重い知的障害の娘さんの親であり、親の気持ちと企業経営者の立場の中で葛藤しながら自分は憎まれ役を買って出ながら我々に大切なことを教えてくれたのです。障害種別を超えて理解を深めていくだけでなくて、障害者問題を社会の間で理解を深めて行かなくてはだめだと彼は教えてくれました。そしてその頃から企業関係者が本音で意見を言ってくれるようになりました。我々もそれを受け止める準備が出来たのです。それからもっと多岐にわたり奥の深い議論が出来たような気がします。 それと広い千葉県各地に出かけて行ってシンポジウム、タウンミーティングを開いて、市民、地域の人たちに集まってもらって「自分たちがなぜこういう条例が必要だと思っているのか分かってほしい。障害者の人たちがどんな思いをして暮らしているか、差別かどうか微妙かもしれないけれど地域で暮らしている人達がこんな暮らしにくさを持っている事をわかって欲しい。」と市民に知らせようと思ってやりました。 タウンミーティングで感動 〜「勝利の女神だね」 房総半島の南の方の過疎地で開いたシンポジウムで重症心身障害で寝たきりの娘さんのお母さんが素晴らしいお話をしてくれました。 そのお母さんは毎日、毎日娘のオムツの介助、どこへ行くにも娘を背負って抱えて行かなければいけない。毎日のことで疲れ果ててしまって、孤立して、地域で白い目で見られたり親戚に色んな事を言われて追い詰められてしまう。――「こんなことならこの子を道連れに・・・という思いが何度か頭をよぎったことがあるんです。」 それでそういう時に小学生のお兄ちゃんがいて、お母さんが座って暗い顔になってくると、いたたまれなくなってお兄ちゃんがお母さんの背中を黙ってさするようなことをやってくれるのです。お兄ちゃんの存在にハッと我に返って「こんなんじゃいけない。もう一度気持ちを立て直して何とか間違いを犯さずに今日まで生きてくることが出来ました。」そして「最近少し生活が安定して心にゆとりが出来るようになりました。」と。 そのすごく優しいお兄ちゃんが言いにくそうにもぐもぐ言ったんです。「お願いだから学校にだけは連れて来ないでくれ」と頼むんです。寝たきりの障害の重い妹を友人に見られたら皆からバカにされるのではないかとか、からかわれたりイジメの対象になるのではないかと心配しているのですね。お母さんはお兄ちゃんの気持ちがわかるので「大丈夫だよ。連れて行かないから安心して。」 ところが一方で、お母さんは妹が大好きなお兄ちゃんから学校では「自分には妹がいない」とされていることに不憫でならないわけです。そんなことお兄ちゃんには言えないわけですね。 お兄ちゃんが小学校6年生になった時に、お母さんに自分がソフトボール大会の選手に選ばれたことを報告。 「良かったね、頑張ってね!」と言うとお兄ちゃんちょっとさびしそうな表情。――母親に来てほしいのかな、6年生で小学校最後のチャンスだし。自分もお兄ちゃんの晴れ姿を見に行きたい。だけどこの妹を一人で置いていく訳にいかない、学校につれて行く訳にもいかない。(田舎なので妹さんを預かってもらえるところもなく) だからお母さんは「頑張ってね」と言うしかありませんでした。 でも見に行きたい気持ちも強く、さんざん迷った末に、試合当日決心を固めて、その重度の心身障害の妹を車いすに乗せてそっと学校に連れて行きました。皆に見つからないように応援席の隅の方に隠れるようにして見ていました。 ソフトボールの試合はお兄ちゃんも活躍して勝ったそうなんです。 お母さんは見に来た甲斐があったと思いながらお兄ちゃん達に見つからないうちに帰ろうと、そおっと車いすを押して帰ろうとしたその時に――その試合を終えたお兄ちゃんの同級生達がズラっと並んで、一斉にこっちを見ているのです。 その視線にお母さんが気がついて「見つかったかもしれない、どうしよう、どうしよう」ドキドキして・・・ ザワザワした空気がだんだん近づいて来るのです。 気がついた時にはお母さんと車いすの中の娘さんは、同級生たちに周りを取り囲まれていました。 (子供たちは重い障害児を余り見た経験がないようで好奇心を寄せて)代わる代わる覗きこんできました。 なんだ、こいつ、見たいな感じで。 娘は視線が定まらずにポカンと口を開けたままだったかもしれません。みんな、「オイオイ、お前生きているのか」というような騒然とした感じになりました。まるで、お兄ちゃんの約束を破った上に、見世物のようになり明日からお兄ちゃんは学校で一体どうなってしまうのか、私たちの生活はどうなってしまうのか、お母さんはもう卒倒しそうな感じになりました。 そうしたら同級生の一人が手を車いすの中に伸ばして小さな妹の頭をなでたそうです。 そして一人が「勝利の女神だね」と言った。 自分たちは試合に勝った。それは自分たちも頑張ったこともあるけど、この子が「勝利の女神」で応援してくれたから試合に勝てた。 「そうだ!そうだ!勝利の女神だ!」今度はその方へ盛り上がっていったのです。 会場では市民の人たちがたまらなくなってジワーっときてお母さんの気持ちが伝わり同級生の子供たちがよくもそんなことをしてくれたものだと思って、子供たちに感謝したい気持ちになりました。 ○成熟社会のこれからの“大きな資源”に 「生きる力」を培う 最近の子供や若者には暗い話題が多く、イジメやリストカットや自殺など。今の子供は生きる力が希薄だなどと簡単に言うけれどもそんなに子供の生きる力なんて10年や20年で変容するものではないですよね。そもそも生きる力とは何なのだろうかと考えますね。 昔、私の出身地の熱海市は(温泉町の別府も同じように)県外から逃げるように移り住んで来たお母さんと小さな子供が隠れるように住んでいるような風景がありました。夜になると旅館の仲居さんなどに働きに行くのですね。ある時、家庭団欒の私をうらやましいと言ってそんな家庭の子供が一緒に晩御飯を食べてほしいとお母さんのつくった夕食をお盆に持って訪ねて来ました。一緒に晩御飯を食べているといつも一人で夕食をするその子の気持ちが伝わってきて、その子の気持ちが寄り添うように伝わってくる。子供同士の気持ちが触れ合う、震え合うような、固まってくる感じですね。人間の生きる力と言うのはそういう体験を何度も何度も繰り返しながら、同じ時代の同じ地域に住む相手のことを信じることが出来る-------それがフィードバックして自分自身の存在を肯定できる。群れを作っていくことしかできない人間にとっての生きる力と言うのはこういう環境にしか培っていけないのではないか、そんな気がします。 大人たちの責任 〜ある中学生の自殺 子供たちの響き合うような環境がなくなったのは子供たちの責任ではなく、大人たちとの付き合いの中で子供たちが苦労しているのかもしれない。ある地方で中学生の男の子が電柱にロープを掛けて首つり自殺し亡くなりました。 本当につらい取材でした。亡くなった彼は、勉強が出来て優しくてしっかりしている半面、時々忘れ物をしたり汚れた服を何日も着ていたりしたので、小さいときからクラスで「臭い、汚い、貧乏」といじめられて来たと言います。彼の両親には軽い知的障害がありました。ですから両親とも一生懸命育てているんですけど苦手なこともあって時々忘れものがあったわけです。 彼は小さい時にはどうして自分だけイジメに会うのかわからなかったのが、成長するに従い、そのイジメの向こう側に両親の障害があり、世の中が両親をどんなふうに見ているのかがわかってきた。 彼はお母さんに楽をさせたいと休みの日には一人で弟の面倒を見ていました。ある日、弟の友人が遊園地に行ったことをうらやましそうに話しているのを聞き、彼はお年玉をためた貯金から取り崩して弟の手を引いて遠い遊園地に連れて行きました。いっぱい乗り物に乗せていっぱいアトラクションを見せて他の子に負けないように楽しい思いを作らせました。弟があまりにも喜ぶものだからまた連れて行き、何回も連れて行くうちにどんどん貯金が亡くなって最後には遊園地に連れていけなくなりました。 ある日、彼は一人でロープを持って自殺してしまいました。 彼の遺書には「お父さん、お母さん僕を生んでくれてありがとう。僕はお父さん、お母さんの子で幸せでした」と書かれていました。 私はこの取材をしてなんとなく申し訳ない気持ちになりました。 その子が選んでその時代その地域に生まれたわけではない。その子が生まれた地域がどんな地域なのかというのは我々、大人の責任なのです。私はこの国に生まれてくる子供達に対してもっともっと我々大人が責任を持たなければならないと本当に思います。 私たちは県条例を作りましたが、障害者のためだけの条例ではなく、これから生まれてくる子供達にとってもこの条例は絶対に必要だと思います。あなたの隣に住んでいる人は実は障害があって暮らしにくい思いをしているかもしれない。あなたが良かれと思ってしている事はその人を傷つけているかもしれない。それを気付かずに生きているあなたの存在とは一体どうなんだろうかという事を皆で分かってほしい。 これまでのこの国は成長や成功に非常に価値観を置いて来ました。(村上春樹流にいうと“効率”) しかし世界最先端で高齢化が進み、暮らしにくい人がどんどん増えてくる。その中で成長や成功だけを唯一の価値とする社会は成り立たないと思う。 これからは暮らしにくい、いろんな弱いものを持った人たちがそれぞれ社会に刷り込んでいくような、むしろ成熟――いろんな価値観を認め合って、むしろそんな価値観を楽しみあうような余裕のある成熟社会をこれから作っていく必要があるし、そのためにも我々のこうした取り組みと言うものが大きな資源になる筈だと思います。 障害を持った人達が、地域でどんな暮らしにくい思いをしてきたか一番良く自覚している人達であり、それを何とか解消していくために一番多くエネルギーを費やした人達です。それが、これからの社会全体の大きな課題を担う大きな大きな資源になってくる。私は確信しています。 障害者だけが良くなっていくということはあり得ません。障害者が社会を良くしていくのです。良くなった社会の中で障害のない人もある人も幸せに生きていくという事を目指さなければいけないと思います。 ○条例案を県議会に提出 県議会で一度は“撤回” 県条例案は議会に出してからが大変で、提案する前の1年間は非常に実りの多いものでしたが、提案後のことは今でも思い出したくもないことがいっぱいあります。 千葉県という所は、浜幸(浜公?)こと浜田幸一の出身地で、彼の子分やその秘書たちが何人も県議会議員となっていて、事のほか、障害者や女性問題を目の敵にしていました。今もって男女共同参画社会づくりの施策条例もない県で、我々のこの条例案を手ぐすねして待ち構えていました。 男女共同参画社会づくり条例の時も、議会から難くせをつけられては何とか修正しろと迫られ、挙句は煮え湯を飲まされるという、散々な経験を持つ堂本知事は、今回は「絶対に修正しない!」と突っぱねました。 そうしたら県議会側は崇(かさ)にかかってきて、だったら不信任決議案を出してやる!――条例を通すどころか知事の首を取られそうになりました。結局、最後は知事自ら泥をかぶって撤回しました。当時、まさか撤回されるなど信じられないまま我々家族、当事者たちが議会の傍聴席を埋め尽くして見守り、百数十人の前で撤回案が可決されました。我々は茫然自失の体でまさかと思っているところを、賛成したニヤニヤした議員や困った議員は下を向いたまま議場を出て行きました。 私はやはり千葉県では無理だと、この状況がこの国で障害者が置かれている立場を物語っているのではないかと、皆に相手にされずに誰もいない議場で我々だけが取り残されている、これが今の日本の状況だとその時、私は思いました。ところが広い議場の中で、我々のほかに誰もいないはずの、傍聴席から一番向こうはずれのヒナ壇にポツンと一人だけこちらを見つめている人がいました。堂本知事でした。気がついた我々の席の後ろから「知事ありがとうございました。こんな自分の政治生命にかかわることまでしちゃって、最後まで私たち応援しますから。」その声を聞いて、みんなでワアー、ワアー泣けてきちゃって。私も涙が止まらなかった。 知事も申し訳なさそうに何度も頭を下げて「私の力不足」だと言って、我々最後の一人が席を立つまでじっと見つめていました。 最終章 〜県議会が再び動く 県議会で条例案が撤回された時、「これで全部終わった」と私は思いました。 そしたらその時からです。議会が変わったんです。困ったような顔をして議場を出て行った議員達が「我々は一体何をしているのだ」と声を挙げてくれたんです。「作ってほしいというのであれば作ってやろうではないか」と言いだしてくれてその声がどんどん広がっていきました。 その年の夏は我々の研究会と千葉県と県議会の三者の間で、どこをどう修正すればお互いに折り合えるのか、熾烈な話し合いをしながら最後の修正案を9月県議会に提案しました。原案を上程して8カ月経っていました。 これでダメだったらあきらめようと皆に言い聞かせていました。 反対派は最後までひっくり返そうとゲリラ作戦を展開し、いろんな嘘八百をFAXで流したりしました。県議会最終日の本会議の前に開かれた常任委員会で、反対派の議員達が研究会の座長を呼んで、こんな条例案をどうして主張しているのか説明させろと要求し、私が参考人として呼ばれました。 反対派のいる議員の前で私はものすごく緊張し、何百、何千の人たちが力を合わせてやってきたのにこの説明に失敗すれば全て終わりだなと思いながら、緊張の極致のままの1時間を何とか持ちこたえました。 反対派の議員の一人が聞いたそうです。「あれが本当に座長なのか」県職員がうなずくと「何だ、普通の人ではないか」。過激派だのFAX攻撃していた人でした。我々と議会との歩み寄りのプロセスだった8カ月は途中投げ出さずによかったと本当に思いました。 2006年10月11日、日本で初めて、遅れた千葉県で県条例が産声を上げた。 研究会を立ち上げて1年8カ月が過ぎていました。 (完)