「だれもが安心して暮らせる大分県条例」をつくる会会報 「あなたも わたしも」第2号 2011 年9 月26 日発行 ー心に期するーさあ、一歩、一歩。前進だ! 事務局次長 志賀等 私が地元TV局の報道記者時代に初めて福祉問題に取り組んだのは1981年の国際障害者年の時でした。今でも印象に残っているのは脳性小児まひの子供の母親から「この子が自分で靴下をはくのに踵(かかと)を通り越して引き上げるまでに7年以上かかり、生まれたばかりの時は何度この子といっしょに死のうかと思ったことか」と。取材の場面でにこやかに応じてくれたあと言った母親の言葉に、母親が現実に抱えている苦労や将来への不安の大きさを感じました。 この1年間、障がいとは、差別とは何かを学びながら集会のリレートークなどで生の声を聞きましたが、障がいが故にひきこもって孤立するという声、また“親亡き後”どうなるかと心配する母親たちの声が依然多く聞かれました。そして13年前大分市で起きた重度障害児の母子心中事件のような事件が再び起こらない状況にはなってないと思いました。 先般、ある集会でJR亀川駅のバリアフリーに取り組んでいた障がい当事者が「県内のJR駅のうちバリアフリーの駅は僅か8駅で大分県は9%と九州平均41%、全国58%に比べて最低だ」「どんなに条例があっても、その条例に命を吹き込むのは利用する障がい当事者や県民の働きかけである」と強調していました。別府市は1973年に“身体障害者モデル都市”に指定され、1995年に“福祉のまちづくり大分県条例”が西日本で初めて制定されたものの、亀川駅にエレベーターが設置されたのは2007年でした。 しかし今では、粘り強い関係者の働きかけで実現したエレベーターには荷物を抱えた障害のない人も多く利用しており、障がい者にやさしい街は全ての人に対してもやさしい街になるということを実証しています。 大分県内には約11万人の障がいのある人が暮らしており毎年増え続けています。 県民誰もがケガをしたり病気の時もあり、さらに加齢により体の機能が低下していくことを考えれば、障害のある人にとって暮らしやすい社会をつくることは県民すべてにとっても大きな課題でもあります。 国や県などのトップダウンではなく “わたしもあなたも”力を合わせてみなさんの体験談や声を集めて「何がどう変わらなければならないのか」を考えて行き、誰もが安心して暮らしていける社会目指して、いっしょに条例づくりを進めて行きたいと思います。 勇気凛々。負けてたまるか! 挿絵 原野彰子作 イチョウの葉「黄金の道をあなたと歩く 夢を見た。」 作者の原野彰子さんは別府市在住。42年間の障害歴(脳性まひ)ですが、マイカーと電動車いすで出かけます。絵手紙と大分が大好きな女性です! 本音トーク ―秋空につぶやく― @「人生の選択」 NPO法人あっとほぅむぷれいす 川野陽子さん(33)=中津市出身・日出町在住= 「あらゆるサポートを受けながら、自分の役割を果たす」こと、それが私の考える自立です。 私は現在、ヘルパーのサポートを受けながら日出町で暮らしています。6歳から20歳までの14年間、 家族から離れて別府市内の病院に入院し、そこから養護学校に通いました。他の兄弟は親元にいるのに「何で私だけ?」と、寂しく、泣いてばかりの毎日でした。 短大への進学を決めたとき、本当は幼児教育科に進みたかったけれど、車いすでは実習にいけないからと家政科を選びました。今思えば、自分自身がもっとエンパワーメントされた状態で、自分の思いをしっかりと意志表示できたなら、合理的配慮の視点で、あらゆる方法で希望する科に行けるよう挑戦していたかもしれない。けれど、その時の私には「進学できただけでも奇跡。これ以上、我がままを言ってはいけない」という気持ちが強かったのだと思います。自分の思いを伝えること、自分で物事を決めるということに自信がなかったのかもしれません。 自立生活をしようと決意したのは、 2006年です。障がい当事者が主体となり、同じように障がいを持つ仲間のサポートをしながら、自分の意志で選択した人生をイキイキと送っている他の障がいを持つ人の姿を見て「自分も」と強く思いました。最初、家族は「なぜ自ら大変な生活を選択するのか」と反対しましたが、私の考えを尊重し、応援してくれるようになり、1年後には自立生活をスタートさせることができました。 新しい生活には、発見やうれしい出来事がたくさんあります。ある店の店長さんは「車いすの人も入れないと駄目だよね。今度スロープを作っておきますね」と。私が来店した翌日には、手作りのスロープを作ってくれました。 そういったあたたかい気持ちや、配慮がだれもが安心して豊かに暮らせる町へと変わって行き、私たちの生活をより豊かなものにしていくのだと思います。そのためには、どんどんと町に出て行き、存在を知ってもらうこと、「障がい」について理解してもらう努力をしていくことが、私たちに与えられた役割だと思います。障がいを持っていても、「障がい」を理由にあきらめるのではなく、自分の意志で自分の人生を選択できる力を持ち、1人1人が声を上げていくことが、この条例をより良いものへと動かしていく力となると信じています。 微力ではありますが、条例づくりを“楽しみながら”皆さんと一緒に取り組んでいきたいと思います。よろしくお願いいたします。(インタビュー・藤原留美) A「輝いた命」 重度障がいの娘を支えた横山隆子さん(61)=岐阜県出身・大分市在住= 22年 10カ月の命は、家族の喜び、強さの源だった。大分市梅が丘の横山奈見さん。療養ベッドの上、挿管チューブを付け、わずかに明暗が分かる目を開き、親しい人の声に笑った。「自宅で家族と過ごさせたい」。ささやかな願いのため、隆子さんはどれほど闘ったことだろう。 1987年 7月、当時住んでいた岐阜県で、横山家に末っ子長女の奈見さんが生まれた。半年後、突然の心停止。一命は取り留めたものの、医師から水頭症と診断された。頭蓋内にたまった脳髄液を腹腔内に流すシャント術は、残念ながら成功しなかった。 一命を取り留めた後、「娘を決して見放さない」と誓った。猛然と小児のリハビリ施設を見学し始めた。病院にリハビリのプログラムはない。隆子さんの孤軍奮闘は、やがて医師、看護師を動かした。奈見さんに毎日2回の沐浴が始まり、拘縮していた手足はみるみる柔らかくなった。「人を動かすには、まず自分が動かなければ」。確信が生まれた。 「このまま『治る』ということがないならば…」。89年、隆子さんは息子 2人、夫と暮らす自宅に娘を戻す決意をする。奈見さんは気管切開術を受けて、自宅までの3カ月を療養病院で過ごした。担当のN医師は常々、隆子さんに問いかけた。「この子と一緒にどう生きたいのですか」と。 新聞広告を見て訪問看護ステーションを契約し、一家は病院近くに引っ越して奈見さんを迎えた。奈見さんとどこへでも一緒に出かけた。「世間に見てもらわねば、理解されない」。頻繁に痰吸引に起きた。寝巻に着替える夜はなかった。 93年、夫の機械設計会社が倒産。家計をやり繰りするため、隆子さんは病院職員として働いた。 95年、元従業員のつてで大分に夫の再就職先が見つかった。「車いすマラソンがあるくらいだから、障害者に理解があるはず」。淡い期待は現実の前に吹き飛んだ。 ある日、県内のある病院に入院していた奈見さんを見舞い、声を上げた。四肢がベッド柵に拘束されていた。体交は施されず、首が一方向に固まった。夫の仕事が落ち着き、病棟師長に自宅退院を申し出たが、「超重度で、両親とも仕事をしているのでしょう」と一蹴された。受け入れ医療機関を探すのに2年かかった。 娘と 2人で岐阜に戻ろう。隆子さんはN医師のもとへ飛んだ。すべてを受け止めてN医師は言った。「娘さんは家族がいる場所が幸せなんです。もう一回、動いてごらん」。 2007年、隆子さんは新聞広告を頼りにHクリニックに飛び込んだ。果たしてクリニックは自宅退院までの一時入院を受け入れ、訪問看護、デイサービスと支援の扉が次々に開いた。自宅退院 3カ月後、閉じていた奈見さんの右目が開いた。たくさん家族旅行をした。 2010年 5月、奈見さんはデイサービス先で急変し、永遠の命の世界に旅立った。 「私にとっても悔いの残らない人生」と、隆子さんは前を向く。「ハンデに対し、まず自分から動く。それができたのはN医師のような『疲れたらいつでも病院に帰っておいで』という言葉があったから。親が笑っていなければ子どもは笑えない。障害のある子と親を支える人、社会資源が増えていくことを願っています」。(インタビュー・佐藤由香) それはあなたのことであって私のことではない、のだろうか! 「だれもが安心して暮らせる」ことの意味 条例づくり班責任者・平野亙 私には、 16歳になった自閉症の娘がいます。診断されて 13年になりますが、いまだに娘の生きる世界を理解できていないと実感させられることが数多くあります。娘をうまく理解できない大きな原因は、私の側にあります。娘が何を感じているのかを大切にしなくてはならない場面でも、ついつい自分の経験、自身の感覚で娘を見てしまうのです。 「障がい者」とはどんなひと? 親であっても、わが子の障がいを理解し、丸ごと受け入れるのは容易ではありません。ですから、世間の人にとって、障がい者が遠い存在に思えたり、かかわり方がわからなくても、ある程度は仕方のないことなのかもしれません。でも障がいのある人は、決して少なくなく、人口の 1割から 2割は、何らかの障がいをもつと考えられています。日本では障がい者というと、病気やけがなどの原因があって身体・精神・知的その他の不自由を抱えた人と、固定的に考えられがちですが、いま国際的には、一定の状況のもとで何らかの支援や配慮(国連「障害者権利条約」の定義では「合理的配慮」)を必要とする人が、その支援や配慮が欠けることによって、障がいが形づくられると考えられています。 社会が障がいを形づくっている 昼間、路線バスに乗っていて、気になることがあります。お年寄りが、周囲にとても気兼ねしているようなのです。足の弱った方でも、入口そばの優先席はあまり利用せず、前方の席に座ろうとします。当然乗り降りはゆっくりです。その間運転手さんもきちんと待っているのですが、決まって、気の毒なほど「すみません」「ごめんなさい」と言って降りていかれます。何も悪いことをしていないのに、肩身の狭い思いをしておられるのです。 障がいをもつ人は、これ以上に肩身の狭い思いをしているのではないでしょうか。例えば、足が悪いという個人の特性に、社会が肩身の狭い思いを押し付けたり、手を差し伸べないために外出できなくなる。こうして、人の特性を社会が障がいへ変えてしまうのです。「合理的配慮」という概念の背景には、障がいをもつ人が、だれかに支えられ、必要な支援を受けて、自分らしく生きていくことを当然の権利とする考え方があります。 だれもが、の含意 そもそも私たちはみな、支えあうから生きていけます。その支え合いは、見返りを期待してのものではありません。よく「お互い様」と言いますが、親子の関係のように見返りを求めない、互酬性を越えたところに、支え合いの本当の意味があります。 人は誰でもみな、「自分らしさ」を大切にし、人からも尊重されたいと願っています。それは、障がいがあろうがなかろうが、若かろうが老いていようがみな同じです。ただ、障がいをもつ人たちは、これまでそれがかなわずに一番辛い思いをしてきた人たちです。 ですから、障がいをもつ人たちが、安心して笑顔で暮らせるようになって初めて、私たち「だれもが」みんな、笑って暮らせる、そんな社会に近づくのだと思います。私たちがこの条例づくりで「だれもが」という言葉にこめた願いはそこにあります。 だれもが安心して幸せに暮らせる大分になってもらわないと、障がいのあるわが子をこの世に残して去っていく私たちは困ります。障がいのある人も、その支援者も、地域の人たちも、みんなが幸せになれないといけないのです。 聴き取りスタート −世話人会の報告- つくる会の取り組み方針は世話人会で話し合いながら決めています。 県内各 地から毎回50名を越す方が参加して います。3回の話し合いを経て、聴き取 り作業がスタートしました。 第1回世話人会 6月28日 初めての世話人会は、県内各地から約60人が参加して6月28日に大分市のコンパルホールで開かれました。最初の取り組みとなる「事例聴き取り」に向けて、6つの地域班の責任者を決めるとともに、聴き取り用の「アンケート」の検討を行いました。その結果、聴き取りを試行してみることや、事務局のもとに「広報委員会」を設置し“ニュースレター”の発行や“ホームページ”の開設を行うことを確認しました。 第2回世話人会8月2日 第2回世話人会は8月2日に開催されました。県内各地から50数名の方が参加し、熱意あふれる話し合いが行われました。「報告すること」のなかでは、ニュースレター第1号の発行や「聴き取り」調査の試行結果などが報告されました。第1回の世話人会で呼びかけられ「聴き取り」の作業はかなりの実例が集まり、「質問票」についても多くの感想 ・意見が出されました。「話し合うこと」のなかでは、懸案になっていた役員について、次のように提案され承認されました。 ・代表(共同)阿部実・徳田靖之・平野亙・宮西君代・湯沢純一・寄村仁子(50音順) ・事務局事務局長に徳田靖之(代表兼任)事務局次長志賀等 参加者からは、「本音が言える調査方法を」「あきらめている人の声をどう引き出すか」「声を聴くためには信頼関係が必要」「1対1ではない形(グループ聴き取り)もいいのでは」など、思いが込められた発言が多く出されました。 第3回世話人会9月6日地域ごとに話し合い 第3回世話人会は9月6日に開かれ、県内各地から約60人が参加しました。会則(6ページ参照)を決定するとともに、事例聴き取りのためのアンケート用紙について最終的な検討を行いました。 今回は、6つの「地域班」の取り組みを具体化するために、地域ごとに話し合いを行いました。この話し合いによって、それぞれの地域ごとに打ち合わせの日程を決めたり、行動計画を検討するなど、具体的な動きのスタートが開始されることになりました。聴き取り用アンケート用紙も最終的に確定し、地域班による配布を中心に、郵送やホームページによる配布や意見募集も含めて、聴き取りが開始されました。 地域班の報告 聴き取りは地域班が中心になって行います。県内6地域に班が作られ活動を開始しています。 9月26日現在、アンケート用紙約700通を団体や地域班、個人にお渡しをしており、回答は配布47通が事務局まで届いています。回答には多くの記述があり、切実な思いが届き始めています。(次ページ参照) 各地域班の取り組みも、第3回世話人会後、県北が9日と26日、別杵が10日、県南(津久見)が14日、大分が20日、久大が21日(訪問)と打ち合わせを行っており、今後も県南(3市)が9月28日、県北が10月9日、別杵が10月11日、大分が10月13日に会議を開く予定です。各地域の会議では、配布方法や聴き取り方法に地域独自の提案もあり、今後、聴き取りの取り組みは大きく広がりそうです。 また、これまで情報が届いていない人、周囲とつながりがない人への働きかけについても、「日時・場所を決め新聞・テレビで紹介してもらい“声を聴くホットライン”(仮称)を実施したい。できれば県内6カ所一斉に行いたい」という提案があり、各地域に働きかけながら、世話人会で決定していきたいと考えています。 ホームページのご案内「だれもが安心して暮らせる大分県条例」をつくる会 公式サイトhttp://daremoga-oita.net/ ●アンケートも入会もホームページでできますホームページからインターネットで声を届けるための「アンケートのページ」に入ることができます。 会則の紹介 だれもが安心して暮らせる大分県条例」をつくる会会則 (名称)第1条この会は、「だれもが安心して暮らせる大分県条例」をつくる会と称する。 (会の目的)第2条この会は、大分県において、障がい者への差別をなくし、障がいのある人もない人もともに安心して暮らせる地域をつくるために、「だれもが安心して暮らせる大分県条例」を制定するための活動を行うことを目的とする。 (会の構成)第3条会の構成は会員をもってなすものとし、会員の定員は定めない。 (会費及び運営費)第9条この会の運営は会費及び支援者からの協力金をもって当てるものとする。会費の額は年間一口500円とする。 届き始めた声声声 いま不安なこと、感じていること ・兄弟の結婚の妨げになりはしないか。 ・親亡き後のこと。親が病気になったとき。 ・学校(支援学校高等部等)卒業後の就職。就職できたとして、休日をどう過ごすか。 ・修学旅行の航空会社の対応等。融通効かず、マニュアル通り…四苦八苦 !! ・災害時の避難場所の確保。 つらかったこと、悲しかったこと、差別だと感じたこと ・人出の多いところに買い物に出かけると、障がい者用の駐車場はたいがい駐車されていて、待っているとそのほとんどは健常者が駐めている。モラルの低さにがっかりする。 ・学校でわがままな子として扱われる。休日の遊び相手がいない。 ・障がいがある子の高校入学祝いをもらえなかった。おめでとうと言ってほしかった。 地域や周りの人にお願いしたいこと ・障がいを持っている子が地域の学校に行かないと地域との関係は浅い。地域の行事にも参加しづらい。 ・災害の時に誰が駆けつけてくれるのだろうか。結局家族で動くしかないのかと思う。 ・障がいがある子どもに声をかけてくれるとうれしいし、ありがたい。 ・行政等公共施設の障がい者目線での設備設計。 ・行政窓口でついたてもないのに生活状況を詳しく聞かれる。プライバシーはないのだろうかと感じた。 こんなことができたら、こんなことをしてみたい ・老人になった私と障がいを持つ息子が、同じ施設で生活でき、公民館や保育所、病院、商店なども一緒に入った建物で、いろんな人と交流しながら生活する。そんなことができたらいいなあ。 ・医療と福祉がドッキングした建物=施設。 ・24時間(緊急)対応で息子を見てくれたらと思う。 条例について ・しゃべれなくても、動けなくても、人としての尊厳を持って生きていけるような社会であってほしい。そのための条例になることを願っています。 ・不満や批判ではなく、まごころでまごころに訴え感じてもらえるような条例に。 言わせちょくれA 「育爺のつぶやき」 大分市元記者小川彰 “イクメン ”。漢字に当てはめれば“育男”とか。“イケメン”に引っかけたのだろうが、イメージ先行で、実態とはかけ離れている。厚労省PRによると「子育てを楽しみ、自分も成長する男」とある。しかし、労働環境の実態は厳しい。事実、育児休暇の男性取得率は二%程度。残念ながら甘っちょろいことは言ってられない、ご時世なのだ。 確かに若い世代にあっては、共稼 かせ ぎ夫婦が増えている。これは女性の社会進出というプラス側面の評価もあろうが、一方、男性の就業、収入などの不安定要素が招く苛酷 かこくな現象ととらえるべきかも…。 この論争はさておき、核家族化が進む中で確実に?存在感を取り戻しつつあるのが、育爺(イクジイ)、育婆(イクバア)の存在。若い共稼ぎ夫婦にとっては、大きな拠 よ り所であろう。育婆は、どうしても我が子を育てた時のク (失礼 )が直らないのか、孫へのしつけも厳しい。育爺は、かわいいばっかし。当然、孫からはモテモテ…。 だが、育爺には育爺の意地 いじ がある。つい先日、大分市内に住む孫 (一歳ちょっとの女児 )が保育園で発熱。共稼ぎの娘から電話を受け、爺婆そろって保育園に車でお迎え。夜、高熱を発したうえ、吐き気やグッタリ感など一般症状も悪く、小児救急病院へ。検査の結果、「心配なし」との診断。ここから育爺の本領発揮 (ほんりょうはっき )が始まる。院内に目をキョロキョロ。発見したのが、お持ち帰り自由のドロシー・ロー・ノルト作「子ども」の詩文。ドロシーさんは、米国の故・女流作家だ。著作権の関係もあるので、ご紹介するのは、ほんの数行。 批判ばか(りされ)た子どもは非難することをおぼえる殴られて大きくなった子どもは力にたよることをおぼえるしかし、激励 げきれい をうけた子どもは自信をおぼえる寛容 かんよう にであった子どもは忍耐をおぼえる 娘夫婦には読ませたいと思う。他にも「子どもが育つ魔法の言葉」や、「子は親の鏡」など著書は多数。ご一読されてみてはいかが。 さらに今回も使った幼児二人のお尻写真。「おふざけが、ちと…」の声もあろうが、私はそうは思わない。その理由。 まず、この会報は障がい者やその家族、関係者らに本音 ほんね を語ってもらうことに重点を置いている。どうしても涙なしには読めない文章も出てくることだろう。だから、このページだけでもホッとした気持ち、頭の切り替えになってもらいたいと思う。私は社会部記者時代、後輩たちに“喜怒哀楽”の心を忘れるな―と気合いを入れていた。「喜び、楽しさの心が分かってこそ、本当の怒り、悲しさがわき上がってくる。その逆も真。このような二つの心根こそ取材の原点であるべきだ」と。 二つ目の理由は、幼児が突き出したお尻は何となくユーモラスであり、「きっと、おしりかじり虫がやってくるかも」。四年前の夏、NHK「みんなのうた」で大ヒットした「おしりかじり虫」の歌=うるまでるび作詞・作曲=。@番はよく覚えている。「おしりかじり虫おしりかじり虫かじってかじってかじってナンボかじってなんぼの商売だ」。確かF番か G番まであったが、奇妙な歌詞にメロディー。何となく心の中に入り込んできた。おしりかじり虫からお尻をかじられると幸せな気持ちになれるという。 ここで県条例づくりに加わった仲間たちに呼びかけたい。写真にある幼児のかわいいお尻を見たら必ずや、おしりかじり虫が寄ってくるはず。みんなも一緒にお尻をかじられながら、楽しく作業を進めていこうではないか! ポヨヨーン「おしりかじり虫」が寄ってくるかな!