ニュースレター「わたしもあなたも」第3号 発行 「だれもが安心して暮らせる大分県条例」をつくる会 連絡先 在宅障害者支援ネットワーク 大分市都町2丁目7−4303号 TEL・FAX 097−513−2313 メールinfo@daremoga-net 発行日 2011 年11 月29 日 全8ページ 以下本文 1ページ 気持ちや願いを感じ取れているだろうか ―自己決定ということ― 歩みの会 寄村仁子 私達は障がいのある人もない人も地域で一緒に生きていこうと集まって、さまざまな活動を続けていて、障害者福祉サービス事業にも取り組むことになった。法的な制約の中での付き合いは、プライベートな付き合いと、基本的な姿勢は変わらないはずだ。 でも、その中で少しずつはっきりしてきた事がある。なにかを決定する時、当事者の希望や願いを徹底して尊重していくことが必要なのだけれど、その希望や願いを本当に受け止めているのかどうか、とてもあいまいだったこと。例えば、言葉を使えない人も混じっているグループで、レストランに行ったとする。言葉を使う人たちはそれぞれにほしいメニューの名前が言える。メニューを指さす人や読み上げられたメニューにうなずいてくれる人もいる。けれどそうした手段をとれない人に対して、その場で介助者が当事者の気持ちを十分に聞き取ったり感じ取ったりしながら手助けができているかどうか。 聞き取ったり感じ取ったりするためには、一定以上の時間をかけて付き合うことが必要だから、最初はとりあえず代わりに決めるしかない。 大事なのは、その次に食事に行く前に、その人の好きなものが頼めるよう、日頃の付き合いの中で好みを感じ取ったり、家族などの身近な人から話を聞いたりして、どれだけその人に寄り添うことができるかだ。 自立支援法には「サービスの始まりは自己決定から」と明確にうたってあるが、このことを徹底して行うためには、当事者の願いや希望を聞き取る力が支援者側には不可欠である。今問われているのは、この支援者側の感受性であり、人権感覚ではないだろうか。 小さな声、声なき声を聞こうとする感受性や感覚を制度の中に盛り込むことが、今回の条例づくりだと私は思っている。 小間希美(こま・のぞみ)さんの絵 「クリスマスの夜」(笑顔のサンタクロースのまわりにトナカイやリス、ウサギなどが集めって楽しそうです) 作者 小間希美さんの言葉 心に響いた感動や、誰かに伝えたいメッセージをワクワク夢膨らませて、パソコンに向かう時間は私の宝物。 呼吸器をつけることの多いベッドの上で、わずかな指の動きで、パソコンのタッチパッドに触れながら点や線をつなぎ、色を乗せて描いていきます。 二〇一〇年、初めての個展「夢の世界」開催。 ミスチルの桜井さんが大好きな二一歳。大分市在住。 一面のキャッチフレーズ 「一日一歩、三日で三歩、百人百歩。」 2ページ 「届いています 声 声 声」 今までに届けられたアンケートは約400通。たくさんの思いが、実感を込めて書き込まれています。その一部を紹介します。第1次集約は12月26日、第2次集約は3月末です。 店などは手話通訳ができなくても、筆談を必ず用意するべきだと思う(聴覚障がい・本人) 以前働いていた職場で自分の障がいをきちんと理解してもらえず、仕事がうまくできず解雇された(高次脳機能障がい・本人) 身障者に対する理解や啓発活動が少ないように思います。今は施設に入居していますが、自宅に帰った時の移動手段が心配です。田舎のためバスの便も悪く、外出が厳しくなります。(身体障がい・本人) 希望―精神障がい者の就職のサポート。精神3級の税金・自動車税を安く。B型作業所の工賃を上げてほしい(精神障がい・本人) リフトバスに初めて乗った時、いやな表情態度をされた。(身体障がい・本人) 公共のトイレを増やしていただきたい。「子供の駆け込み所」のような表示を、支援できる企業がしてくれたらいいと思います−「身障者困った時の相談所」(身体障がい・本人) 身障者用の駐車場がほとんど空いていない。(身体障がい・本人) 親が亡くなった後の子供の生活(自閉症・家族) 親が家から外に出してくれず、初めて外出したのは50歳になっていた。親は障がい者が家にいる事を近所の人に知られたくなかったのではないかと思う。(身体障がい・支援者) 幼稚園ではよくしていただいていますが、普通の発達レベルではない子供にあった適切な支援となると、現時点では人材育成、先生の人数、大分県の仕組みなど問題を感じています。朝昼晩、地域の方が障がいがある子供にあいさつしてくださる方がいる事がうれしいです。(広汎性発達障がい・父母) 親が高齢になり、亡き後の当事者の生活の事、相談に乗ってくれる人、体制があるのか心配です。(精神障がい・家族) 災害が起きた時、放送やサイレンが聞こえない。情報が入らない。(聴覚障がい・本人) 車道と歩道の区別がなさ過ぎる。(視覚障がい・本人) 点字ブロックを利用する人が少ないので必要がないと言われ悲しかった。市民からの「大丈夫ですか」の声はうれしかった。(視覚障がい・本人) アパートを借りるのに視覚障がいと言ったら断られた。(視覚障がい・本人) 原野彰子さんの絵手紙を掲載しています。(たくさん生えたエノキだけ。「よりそいあってポッカポカ」という言葉) 3ページ 「届いています 声 声 声」の続きです。 知的に問題がない障がいの理解はまだまだ他の人たちにはないようで、冷たい視線や言動で追い詰められる。親が病気を受け入れ、前に進もうにも療育や預け先の不足で追い詰められ、どうして良いか分からない状況です。(広汎性発達障がい・母親) 我が子がパニックになると、それを気持ち悪そうに見ながらあからさまに避けて通られた事も何度も経験しています。向けられる目を見ないよう努力してます。(自閉症・母親) 休みの日に公園などに連れて行きたかったけど、変な目で見られるのではないかと連れて行ってやれなかった。(ダウン症・父母) 無口でいると健常者と間違われる。だから話しかけられると返答できないので誤解され、相手を怒らせる。(高次脳機能障がい・家族) うつ病になるとなまけ者のように思われた事が悲しかった。(うつ病・本人) 世間の人々(近所も含め)に疎外される。地区の集会等に出かける時、声をかけてくれない。(精神障がい・家族) 子供が生まれた時に母親が精神障がい者だといじめられるんじゃないか。小学校、中学校で心の健康の授業を設けてほしい。小学校の男の子のお母さんが精神障がいになってし まう童話を執筆中なので、それを舞台化か紙芝居にして演じさせてほしい(精神障がい・本人) 精神障がい者が日中過ごせる場や集いの場が地域にありません。特に若い世代の人は先行きの不安もあり悲観的で自殺企図を持った人がいます。支援者としても支える事に限界を感じます。24時間支援が必要です。(精神障がい・支援者) あいさつをしたとききちんと返してくれると救われます。(精神障がい・本人) 健常者に対して逆差別になるような過剰な支援も当事者のためにならないと感じます。ふつうに当たり前に人生を全うできるように社会のあらゆる環境を整えていく事が必要だと感じます。(精神障がい・支援者) 精神障がい者にも交通割引等の補助が受けられるといいと思う。(精神障がい・本人) パソコンの勉強をして、少しでも上達したなと思った時うれしかった。地域移行できて、自立した生活をしてみたい。(精神障がい(統合失調症)・本人) 病院で車イスの私がヤケドの治療をしていたら、親子がいて子どもが見てた。親の方が、悪いこと、言うこと聞かなかったらああなる(車イス)と言われた。(脊髄損傷・本人) うれしいのは、息子を見て、いつもニコニコしていていやされるよって言われた時、息子の仕草を見て楽しそうですね、とても良いですと言われた時。したいことは、息子と全国を旅してみたい。特に私と同じ境遇の人と話をしたい。(精神発達遅滞・父母) 条例づくりはこのような声から始まります。もっともっと、あなたの声をお寄せ下さい。 4ページ 本音トーク 1 「一人暮らしへの“闘い”」 NPO法人クローバーサポート理事長 大戸竜之(おおと・たつゆき)さん(43)=大分市= カーン!ゴングが鳴った。 4 年間にわたる僕と両親との“闘い”の始まりだ。 33 年間続いてきた、いつもと変わらぬ夕食のひと時。 僕は言った。 「一人暮らしをしてみたい・・・」と。 その日、僕は「ピアカウンセリング講習会」なるものに生まれて初めて参加した。講習会に来ていた仲間の一人は、自分より障がいが重い。けれど、一人で暮らし、働いているという。その目はキラキラと輝いていた。 両親と囲む日々の食卓に何の不満もなかったし、これが僕の当たり前だとおもっていた。なのに重度の障がいがある仲間は「できないことはない」と言い切った。 「一人暮らしをしてみたい」。 その時は、具体的な考えも何もなかったけれど、自然と口から出た言葉だった。 「なに、たわけたこと言いよるんか!」 両親は激怒した。「いつかは入所施設に・・・」という思いもあったのだと思う。 ずっと、「このまま」が続けられるわけではないことは、両親も僕自身も分かっていた。なにより、僕を抱える両親の力が衰えていることは、僕自身が一番、感じ取ることができたのだから・・・。 その日から両親を説得する日々が始まった。その間のことは、この場では言い尽くせない。 ただ両親が出した条件はこうだ。「『職』があれば一人暮らしをしてもよい」。 一人暮らしをしている先輩に出会い、ノウハウを学んだ。幸いにして、良い巡り会わせを得ることができ、NPO法人を設立する仲間にも出会うことができた。 最大の壁は崩壊した。 (両親に)勝利したとは思っていない。自分はとんでもない親不孝息子ですよ。 でも、一人暮らし記念日の12 月12 日には、美味いものでも食べようと思っています。余裕があれば、ですけどね。(インタビュー・藤原留美) 【おおとたつゆきさんプロフィル】臼杵市出身。NPO法人クローバーサポートで、障がいのある人たちにヘルパーを派遣する事業を行っている。利用者に「幸せな時間を提供する」ことをモットーとしている。趣味は将棋。阪神タイガースのファンでもある。理想の女性はZARDのボーカル坂井泉水。 5ページ 本音トーク 2 「差別のない共生社会をめざす」 大分県盲導犬協会会長 湯沢純一(ゆざわ・じゅんいち)さん(61)=別府市= 私は45 歳の時、糖尿病性網膜症で視力を失いました。それまで自分が糖尿病を患っていることにも気付きませんでした。 見えない世界に入って2 年間は、外出するのが恐かった。しかし運動療法が必要ですか ら、室内でルームランナーを使って走りながら、点字図書館で借りた音声テープやラジオを聴いていました。ある日、ラジオでALS(筋萎縮側索硬化症)の女性がエッセー集を出したという話が流れてきたのです。ほとんどすべての運動機能を失いわずかに残ったまぶたの動きをセンサーに読み込ませるパソコンを使って。 「ああ、そうか」と思いました。「自分は五感のうちの一感はとられたが、努力すれば、外出だってできるじゃないか」と。 それから、県盲人協会の中途失明者向けリハビリに参加しました。そうしているうちに盲導犬のことを知り、運が良いことに、申し込みをしてわりとすぐに手に入りました。2歳とちょっとの女の子「エバ」です。栃木県の共同訓練所でエバと寝食をともにし、歩行訓練を受けました。 エバに触れた瞬間に、歩くことの恐さを忘れました。ハーネスを持った瞬間、不思議な力がわいてきました。それから、2代目ワラビー、続いて3代目のラムと暮らしてきました。不便なことといえば、街中の違法駐車や点字ブロック上に止めた自転車や車に、通行を妨げられることです。通常のペット犬のマナーの悪さも気になります。犬のフンを処理していなかったり、ひもを付けないで散歩させていたり。盲導犬がよそ見しがちになるのです。入店拒否をされることもあります。盲導犬、介助犬、聴導犬を利用する人の社会参加を促進する身体障害者補助犬法の存在が、まだあまり知られていないのです。 条例づくりに成功しても、それを改善し続けていく努力が必要だと思います。障がいのある当事者から、さらに子育て中の親、高齢者、若者の様々な課題に光をあてていくことによって、本当に配慮ある共生社会を実現する努力を続けていかねばならないと思います。 (インタビュー・佐藤由香) 【ゆざわじゅんいちさんプロフィル】竹田市出身。別府市上人仲町で、妻と3代目の盲導犬ラムと暮らしている。 2004 年から県盲導犬協会長を務め、「条例をつくる会」では共同代表。 6ページ 裏方さん紹介 全県民に情報を届けたい 県条例をつくる会ホームページ作成担当利光正仁さん (NPO法人障害者UP大分プロジェクト) 特定非営利活動法人障害者UP大分プロジェクト(大分市金池町)でホームページの受注・制作及び、福祉の情報サイト「ほっとねっとナビ」を運営しています、利光正仁と申します。 “大分県条例をつくる会”では主に会の公式ホームページの制作・運営やニュースレーターの音声編集を行っています。 私はIT、パソコンなどを活用しながらこの会が効率よく運営され、より多くの方々に理解、認識をしてもらえるようお手伝いをしたいと考えています。 “大分県条例をつくる会”に参加をさせてもらいながら思うのは、会に参加されている方々の熱意はすごいです。今後うまくまとめあげれば必ず条例づくりは成功すると確信しています。 また同時に、現在条例をつくる会と接点が無い方々に対して呼び掛けを行い、県民の温度差を極力減らしたいとも思っています。県の条例という意味合いは全県民に関係があると思うからです。 どんな人でも当たり前のことが当たり前にできるような社会を実現するために、まずは条例の実現へ向けて皆さんと共に頑張っていきたいと思います。 これからも宜しくお願いします。 「だれもが安心して暮らせる大分県条例」をつくる会のホームページをリニューアルしました。 これまでは1ページのホームページに必要最低限の情報、資料を掲載していましたが、活動期間が長くなり、また、内容も濃くなってきましたので、各項目ごとにそれぞれのページを設けることにしました。 今後も新たな展開が生まれるたびに項目を増やしていきたいと考えています。 また、こういう情報が欲しい、こういう内容を載せてはどうか、など、皆様のご意見があれば事務局あてにご連絡いただければと思います。可能な限り対応させていただきます。広く皆様にご活用していただけるよう運営をしていきたいと思います。 「だれもが安心して暮らせる大分県条例」をつくる会ホームページ http://daremoga-oita.net URLは以前と同様です。 7ページ 世話人会の報告 大勢の人の生の声を 第4回世話人会11 月9 日 第4回世話人会も第1回から変わらずに出席者約60人が県内各地から参加しました。 まず事務局から9日現在の会員数が221人で、聴き取り調査のアンケート用紙がこれまで3000枚配布され、このうち300枚余りの回答が寄せられて、私たちの活動が外に向けて動き始めたこと、さらにこのニュースレターの音声版CDや公式ホームページのリニューアルが完成したこと、10月23日に実施された「声を聴くホットライン」には11人から切実な声が寄せられたこと、大分合同新聞で私たちの取り組みがシリーズで大きく掲載されたことや各地区の取り組み状況などが報告されました。 これからの取り組みとして、今後も“大勢の生の声”を集めるために、アンケートの配布先を広めるとともに、回答の依頼ができていないところをチェックしていく。さらに情報が届かない人、周囲とつながっていない人への働きかけを地域ごとで行い、年内の12月26日までを配布集約終了の第1次締め切りとすることを確認しました。 アンケートのまとめ作業に備えて、各地区で回収した内容を、予め「地域班」で整理・要約し、「地域班」と「条例づくり班」が連携しながら、つくる会の大勢のスタッフが時間をかけて“生の声”を受け止めていくことにしました。 「条例づくり班」はこれから内外の条例づくりのあり方や内容などを学びながら、年が明けて「地域班」も含めて第1次集約を受けた「報告集会」を開いてお互いの認識を深め共有していくことになりました。 地域班の報告 地域班は、県南、大分、別杵速見国東、豊肥、久大、県北の6つの圏域ごとにつくられています。それぞれの地域の人たちが中心になって、約4000枚のアンケート用紙を配布しました。同時に、生の声を集めるために聴き取りを行うなど、さまざまな取り組みを行っています。 県北班は10月9日に、宇佐、中津、豊後高田の3市の人たちに声をかけて「県北集会」を開きました。78名の方が参加し、“声の聞き取り”に向けて話し合いを行いました。この会では、県条例をつくる会の徳田靖之代表が講演しました。「障がいは社会の問題」と語りかける徳田代表の講演は大きな共感を呼び起こし、この日20名を超す入会がありました。 大分班は11月22日に、重度の障がいを持つ子供のお母さん達に聞き取りを行いました。多くの話を聞かせてもらうとともに、アンケート用紙も多く配布していただけることになりました。 別杵速見国東班は、日出町のユニバーサルデザインフォーラムや別府市の障がい者大会などさまざまな機会をとらえて配布を行っています。障がいがある人たちが多く働く企業の協力もいただいて、多くの回答が届いています。 12月26日の第1次集約日に向けて、取り組み方法は、地域により異なりますが、地域班や会員の皆さんの努力によって、生きた声が次々寄せられています。 県条例をつくる会の取り組み決めるのは世話人会です。多くの人から様々な意見が出されます。 地域で暮らす人たちの声を集めるのは県内6つの地域班です。たくさんの人たちが参加しています。 8ページ 言わせちょくれB 「吉四六とクルス」 大分市元記者小川彰 ノドのガンと判明した十年前は、論説専任になった年。十五時間もの大手術の末、声を失う。人工補声器で何とか会話できたが、役所などのビル内では反響音が大きく、仕事にご迷惑をかけそう。かくしてブラブラ取材が始まったのだ。 マイカーで県内を目的もなくドライブ。由緒ある名所旧跡だけでなく、路傍(ろぼう)の小仏や鳥居、渓流、棚田、カカシなどをながめながら、ちょっと気になると停車し取材開始。立て札があればメモ。静かな大自然の中では人工補声器が役立つ。田舎の人は実に親切だった。その後、図書館や資料館に行き、“イワレ”を探るという次第。 このブラブラ取材だが、声を失った故に体得したもの。その立ち場から現在のように役所の記者会見や発表メモに頼りがちな後輩記者たちに苦言を呈(てい)しておきたい。「確かに取材は楽だし、後で間違いがあっても“発表側の責任”と開き直れる。だが、逆の側面からとらえれば、発表側の言いなりになる恐れも」。「足を棒にして…」。決して過去のものでなく、これからもジャーナリズム精神の“原点”であってほしい。本論に入ろう。初秋の頃、吉四六の里・野津(臼杵市)で、さっそくひっかかる。吉四六ランドや菩提寺といわれる普現寺などを一巡後、県立図書館へ。「吉四六ばなし」も様々な角度、解釈から書かれた二十冊ほどが並ぶ。数冊、ページをめくると疑問が湧き、野津通いが始まることに。 奇行(きこう)、頓知(とんち)で知られる豊後の英雄?吉四六さん(一六二八〜一七一五)は、野津の豪商で名字帯刀を許された初代・広田吉右衛門とする説が有力。また「吉四六ばなし」も三百や四百を数え、吉四六伝説にはナゾも多い。この辺りは専門家にお任せするとして、今回の野津通いで知り得た“素人ならでは”のビックリを三点、披露させていただく。 一点目は、「吉四六ばなし」に臼杵のことはよく登場するのに、共に栄えていた三重(豊後大野市)や竹田の話がサッパリ出てこないことだ。即、野津を起点に臼杵方向と、逆に三重・竹田方向とを結ぶ今の国道502号に車を走らせる。野津から三重に入って直ぐ「虹澗橋」の矢印があり、右折。町境界を流れる三重川にかかる美しいアーチ橋の立て札には「岡城下(竹田市)から臼杵城下に至る街道のうち、この渓谷がもっとも交通の難所だった。見かねた臼杵や三重の豪商三人が家運を傾けるほどの莫大な出費を重ね、一八二〇年代に石造アーチ橋を完成させた」とある。だから吉四六さんの時代には、どうしても臼杵との交流に頼らざる得なかったのだろう。 二点目は、隠れキリシタンの存在を裏付けるクルス(十字架)との出会い。国道10号を大分市方面から南下。野津に入って五`ほど進むと「磨崖クルス」(写真・左)の真新しい案内板が目に入る。タタミ一枚ほどもある岩石の滑らかな一面にくっきりとクルスの刻印。立て札には「大正から昭和初期に地元の人たちが偶然見つけるまでは、クルスの彫られた面は地に伏していた…」などとある。破壊を免れた一因かも。 キリシタン大名と称された大友宗麟公が全盛を誇ったのは十六世紀半ば。県内はもちろん、野津にも多数のキリスト教信者がいたと伝えられる。そして徳川幕府となりキリスト 教への弾圧が一層激しくなって野津でも多くのキリシタンが見せしめのため虐殺されたことであろう。この「磨崖クルス」も隠れキリシタンの実在を裏付ける証左(しょうさ)の一つであろう。 三点目は、吉四六さんが隠れキリシタンだったという説。代表作「天のぼり」。天に昇るという発想は、キリスト教信者でなければ思い及ばないという訳だ。吉四六さんとクルス。全く似つかわしくない取り合わせだが、何かしら庶民の夢、勇気を感じる。それに比べ今の世の中、様々な格差や理不尽なことばかりだが、対する庶民は夢、勇気を持ち続けているのだろうか。決して屈してはならない! 以上