「だれもが安心して暮らせる大分県条例」をつくる会 ニュースレター「わたしも あなたも」 第6号(全8面) 2012年6月10日発行 連絡先 住所 大分市都町2丁目7−4 303号 在宅障害者支援ネットワーク 電話・FAX 097−513−2313 メール info@daremoga-oita.net ホームページ http://www.daremoga-oita.net 第1面 見出し 大海原を帆走 視力障がいと向き合う麻生恒雄さん(58)=津久見市= 写真1 海を走るヨット 写真2 ヨットに乗った笑顔の麻生恒雄さん 写真3 6人の仲間と一緒にヨット上で 麻生恒雄さんのプロフィル 1953年津久見市生まれ。津久見市職員だった36歳のとき、両網膜色素変性症を発症。現在は「麻生はり治療院」を営みながら、様々な障がい者スポーツを楽しんでいる。立ち幅跳びでは視力障がい者40歳以上の部で日本新記録を樹立。2004年にはセーリングでアテネパラリンピックに出場した。 ロンドンパラリンピックのセーリング候補選手(正式決定は7月初旬の予定)。3人乗りのヨットで「ジブセール(前の帆)」を担当している。  視力を失って始めたアマチュア無線は1級を取得。500mlビール2缶の晩酌が毎日の楽しみ。妻宏子さん(58)と長女昌代さん(29)の3人暮らし。 第2面 本音トーク1 見出し 福祉の種蒔(ま)き 麻生恒雄さん(58歳) 本文  「治療院で毎日鳥と遊んでるんですよ。“閑古鳥”とね」。相手の目を見つめながら、ユーモアたっぷりに話す。しかしその目は、22年前に視力を失った。  働き盛りの36歳。「階段を転げ落ちるように」視力が落ちていった。病院を3軒訪ねたが、医師は「今の医学では治しようがない。視力があるうちに次の人生を考えた方がいい」と口をそろえた。 宣告の3年前、義理の兄をガンで亡くしていた。「命があるだけで充分と思った。ただ、職場で目が見えているように振る舞うことが一番つらかった」と当時を振り返る。 「自分に何ができるだろう?」。特技と呼べるもの、ましてや視力がなくてもできることなど思いつかない。妻と検討した結果、手に職をつけることに決めた。視力の限界を感じて津久見市役所を辞めると、点字ボランティアをしている近所の人に教えを請い、点字を書き写す課題と、触読の練習を毎日8時間続けた。「幼稚園からプリントを持って帰った長男が、『これ読んで』と文字に私の指を持っていったときは驚きました」。猛勉強の末、3カ月で点字をほぼ習得した。  盲学校の3年間は、宿舎で規則正しい生活をしながら、勉強やスポーツに励んだ。「高校時代よりも勉強しました。その甲斐あって、針・灸・あんまマッサージの国家試験に3種とも一発合格できました」。卒業後、自宅を改装して治療院を開業した。 日曜日の昼下がりは盲学校で、健常者と一緒に「グラウンド ソフトボール」を楽しむ。チームの最高齢だが、思い切り打って走り、率先して声を出すムードメーカーだ。 10年前、別府で行われたヨットの体験乗船会に誘われた。「顔に受ける風が、バイクと同じ爽快感だった」。ヨット競技に興味を持ち、その2年後、アテネパラリンピックに出場した。「ダントツのビリだったけど、いい経験ができた」。 視力障がいがあるセーリング選手は世界でも稀。命を託す仲間、山本真也さん=東京都・脊椎損傷=と西山克哉さん=滋賀県・脳性まひ=とは、1年余り前からチームを組んでいる。昨年イギリスで開かれた『2011世界障害者セーリング選手権』で、初めて集団の中でレースを展開し、ロンドンパラリンピックの出場権を獲得した。  しかし、国際試合に出場するとなると、 1週間以上休暇を取った上、交通費や参加費、ヨットのレンタル代など、1回50万円以上の費用がかかる。「これでは若い選手が育たない。ソフトボールも遠征費はほとんど手出しで、他県では補助が受けられずに全国大会を断念したチームもあると聞く。国や県がもう少し予算を上げてくれれば」というのは、障がい者アスリート全員の願いだろう。 「一人で歩くことが、種を蒔くこと」と、白杖を持って積極的に街へ出る。電柱の迂回路や、大きくカーブした広い歩道などの点字ブロックはなぜか直角に曲げられていて、その都度立ち止まらなければならない。「点字ブロックが途切れることほど怖いことはない。緩やかに湾曲させてくれるだけでいいのに」。エンジンを止めて路肩に停車している車にぶつかることもある。 津久見駅に向かう階段を見つけられなくて困っていたとき、小学校3年生くらいの男の子2人が声でガイドしてくれた。「嬉しくて、小学校にお礼の電話を掛けました。“ボランティア”という特別な意識ではなく、外に出たらみんなが助けてくれる社会になればいいなと思います」。  (インタビュー・大戸佳子)   第3面 本音トーク2 見出し 安部綾子さん=日本てんかん協会大分県支部= 息子さんが12歳でてんかんを発病。日本てんかん協会大分県支部で18年間、寄せられる様々な相談に寄り添っている。 本文  今年4月、歩行者の列に自動車が突っ込んだ京都の事故で、運転手にてんかんの持病があったことから、新聞の見出しに大きく「てんかん」の文字が躍った。ニュース映像を見て、発作が原因ではないと即座に分かったが、インターネットにはまるで「てんかん」が原因と決めつけたような無理解な言葉が書きなぐられていた。 「きちんと服薬し、規則正しく生活をしている人もいる。無理解な人たちからの中傷で、みんなの心が傷ついてしまうのではないか」という不安は的中した。てんかん協会には「発作もなく、働き、家庭を持ち、普通に生活を送っていた息子が部屋に引きこもってしまった」などの相談が寄せられるようになった。「もし病気のことが職場に知れたら・・・」「もし運転中に事故を起こしてしまったら・・・」。不安と恐怖で外に出ることができなくなってしまった人たちに「どう手を差し伸べればいいのか・・・・・」。 てんかん協会に寄せられる相談は年間約90件。相談者の大半は母親だ。わが子が「てんかん」を発病する。「どうして!」。すがる思いで差し出した手を、一番近くにいる身内は握り返してくれない。最も頼りたい人から拒絶されると、その先に手を伸ばす勇気はくじかれてしまう。周りにSOSの糸を伸ばしても、プツン、プツンと糸が切れていく音が聞こえる。 ・プールに入ってはいけないと言われた。 ・修学旅行への参加を拒まれた。 ・動物園に行くと皆がうちの子を見る。 ・親族から結婚式への出席を拒まれた。 「母親たちは、何度も何度も世間から拒まれる経験を重ねている。そんな母親たちが、受話器をとってダイヤルを回すまでにどれだけの葛藤があったのだろうと思うと、胸が苦しくなる」。  相談に訪れたある母親は、協会の活動が記された新聞の切り抜きを手に握り締めていた。その切り抜きはすっかり黄ばんでいた。「最初はみんなボロボロと涙を流す。そんな母親たちに『涙を流した分だけ強くなるんよ』って声を掛ける。思いを共有できる人、思いを共有できる場があれば救うことはできるはず」と信じて18年間、母親の気持ちに寄り添ってきた。 そして京都の事故。今回の事故を受け、国は運転免許取得要件等の見直しに向けた議論を進めているが、心に傷を負って引きこもってしまった人たちには目は向けられていない。「引きこもってしまった人たちが全国にどれだけいるか。誰が彼ら家族の生活を保障するのか・・・」。再び、立ち上がらなければならないことは分かっているが、いったい何度、繰り返せばいいのか。「涙は枯れた」。(条例づくりのある会合で)ポロリと出た言葉だ。 息子がてんかんを発症して間もない頃、病院で見たある母親の姿を思い出す。80歳のその母親は「今から野球観戦に行くのよ」と、60歳の障がいのある子を背負い、さっそうと出かけていった。その時、思った。「あんな強い母親に、私はなれるだろうか?」。そして今、自分自身を振り返る。「強くなった。強くならざるを得なかった。わが子の命を守るために」。 (インタビュー・藤原留美) 第4面 裏方さん紹介 見出し 県条例をつくる会の会計業務を一手に担う 藤野由江さん(写真あり) 本文  昨年の6月4日に結成総会を開いてから、早いもので1年が経ちました。 この1年間、みなさまからの会費・カンパにて活動をしてきました。 たくさんのご芳志ありがとうございました。  いよいよ私たちの活動も2年目に突入します。 そこで、当会の会費の納入年度についてのご連絡とお願いです。  結成総会からの1年間を「平成23年度」とし、 2年次の「平成24年度」は、平成24年6月5日からの1年間とさせていただきます。  会員のみなさまには引き続いて会費(1口500円)のご協力をお願いしたいと思います。 また、新たな会員の方も大募集しています。 どうぞよろしくお願いいたします。 見出し ケニアのスラムから贈り物 福祉がないから−相談−そして「ハランベ」(県北火曜会の写真あり)  県条例をつくる会県北班の定例会「火曜会」が月1回開いている拡大会に、ケニアから3人が参加。首都ナイロビのスラムでの活動を報告した。歌いながら、踊りながらの2時間余り。特に印象に残ったのは「ハランベ」という助け合いの話だった●19人兄弟の長女で親を早くになくし弟妹を育ててきたリリアンは、まわりの子どもたちが食べ物もなく、学校にも行けず、自分と同じような苦労をしているのを黙ってみていられなかった。そこで行われたのが「ハランベ」●ケニアは貧しい。しかし、困ったとき、何かしたいときにはまわりに相談する。するとその話が広がり、ゲスト・オナー(責任者)が選ばれる。その人は集まる日を決め、さらに広く呼びかけ、当日は朝からたくさんの人が集まる●集まった人たちは、まずゲスト・オナーをたたえる歌を歌う。「あんたはえらい、次の大統領だ…」。すると、その人は有り金をはたく。皆次々に歌い、それにしたがい寄付金も増える。自分で作った野菜、かご、なかにはバッグを出す人も。オークションになる。「1日、それで遊ぶ」という。1日の給料が50円、100円の国で、なんと34万シリング、日本円で約70万円が集った●リリアンは、それを元手に部屋を買い、子どもの給食を始める。衛生状態も悪く、親も早く亡くなるために、子どもたちは次々に増え続け、今では500人の学校になった。学校と言っても、国は一切ノータッチ。だから自分たちで仕事をして、資金を稼ぐ。ものを作る作業場もつくった。日本の市民団体とも連携し、協力を広げるために来日中●国や自治体の責任を問いながら、制度で動く日本の福祉。人のつながりだけが支えのケニアのスラム。国境を越えた人のつながりは、「ハランベ」を通して条例づくりの意味を根底から考え直させてくれたと感じています。(O)        *「ハランベ」(HARAMBEE)とはスワヒリ語で「みんなで助け合う/みんなで支え合う/みんなで築き上げる」という意味だそうです。 第5面 見出し だれもが利用しやすい新大分駅へ!バリアフリー調査 写真 新大分駅のバリアフリー調査を実施 本文  NPO法人自立支援センターおおいたは、バリアフリー設備やユニバーサルデザインについて車椅子利用者や障がい当事者による調査を行いました。当日はJR九州、大分県、大分市からも担当者が参加。駅構内の設備や今後の予定について説明を聞いた後、実際にホームや改札口周辺、コンコース、駐車場などを調査。駅のデザインや通路等のスペースの確保など構造全体の印象は良いといった声は多かったのですが、@南立体駐車場の身障者用駐車スペースの数が少ないAATMの使用が難しいB豊後にわさき市場の通路が狭い―など、車椅子使用者の目線でなければ気付かない問題点も多々ありました。  調査結果は大分市議会、JR九州大分支社、JR九州大分駅ビル開発プロジェクト、大分県大分駅周辺総合整備事務所、大分市都市計画部、その他大分駅周辺開発に関わる関係各所に提出する予定です。大分駅周辺施設は開発途中です。今回の調査で出てきた意見も検討・反映して、より良い施設を造りあげてもらえればと考えています。  調査結果についてのお問い合わせは担当の利光(TEL 0977-27-5508、FAX 0977-24-4924)まで。 見出し JR九州へ要望書の提出 本文  新駅舎となり全線に車椅子用エレベーター、多目的トイレが2か所設置されるなど障がい者にも優しい「大分駅」になり、また利便性の向上がなされたことは大変喜ばしいことです。しかし、多目的トイレのドアの開閉ボタンが高い位置にあり、車椅子を利用している人が、手が届かずに中に閉じ込められるという事が起きるなど、使いにくい面も明らかになってきています。障害当事者会「わ」の会、在宅支援ネットワーク、あっとほうむぷれぃす、難聴者協会、障大協、(株)リフライの障がい当事者6団体などは6月14日、改善を求める要望書をJRに提出し、話し合いを行いました。  みんなで声を上げていきましょう!! 見出し 県条例をつくる会第2回総会「声から条例案づくりへ」7月8日(日)に開催 本文  総会では、この1年間の取り組みの報告や、当事者や家族の方などがシンポジウムで「家族から社会へ」のテーマで意見を交換します。そして多くの方々の声をもとに条例づくりに何が求められているのか、これからの取り組みについて話し合います。 7月8日(日)13時半〜・アイネス(県消費生活・男女共同参画プラザ) ・会場では手話通訳や要約筆記を行います。 ・総会の模様は今回もホームページ上で生中継します。 第6〜7面 見出し 伝わる現実−見えてきた条例の姿 〜 一年を振りかえって 〜 共同代表世話人 コ 田 靖 之 1000名以上の切実な声が届く  だれもが安心して暮らせる大分県条例作りを開始して一年が過ぎました。  この間、たくさんの方々の参加とご協力をいただき、多くの成果を上げることができ、このような取り組みを始めて本当によかったと実感しています。  何よりも大きかったのは、300名を超える会員の参加をいただいたということです。その多くは、障がい当事者あるいは家族であり、条例を求める運動が当事者運動としての切実な声を推進力にして進められているということを明らかにしています。  そのうえで、こうした世話人による活動を通して1000名を超える方達がアンケート調査に応えて下さいました。  アンケートに書かれた差別に関する事項は、優に2000を超えており、大分での運動が、千葉や熊本での運動をはるかに上回る規模に達していることを示しています。   さらに特筆すべきことは、こうしたアンケート調査以外に直接障がい当事者や家族に世話人がお目にかかって切実な声をお聞きする活動が進んでいることです。アンケートでは伝えきれない思いを様々な機会で直接伺うことが進んでいることは、私たちが条例作りを始めた当初から願っていたことであり、条例にたましいを吹き込むことにつながることだと思っています。 「 どうしてこんな子が」に孤立感  このような「聴き取り」活動の中で、私が特に注目したのは、次のような発言でした。  1つは、県ダウン症連絡協議会「ひまわりの会」での、身内から「どうしてこんな子が生まれたのか」「うちの家系にはそんな子はいない」という言葉を投げつけられるというお母さんの声でした。  結婚式には出席させないでと言われたとの意見もありました。  一番頼りにしたいと思っている身内からのこのような仕打ちが重なるたびに、「責任なんかないはずなのに、生んだ私が責任をとらなければいけない」という意識に追い詰められながら、誰も信頼できない、誰にも相談できないという孤立感と悲惨感、そして周囲への反発をとりわけお母さん方に与えることになります。 「 できなければ助けを求める」  私は、こうした声の数々をお聞きしながら、先日、津久見市のフォーラムで対談した熊本在住の倉田哲也さんの発言を思い出したのです。  彼は、脳性マヒで生まれ、「あれができない、これができないのは恥だとずっと思い込まされてきた。しかし、それは健常者による刷り込みだ。できる奴だけで作った社会のルールの中で、あれができない、これができないというのは恥だから何でも自分でできるようになりなさいと子どもの時からずっと思い込まされてきた。・・・できないことは恥でも何でもない。できなければ助けを求めればいいんだと気付いたときに自分は一歩障がいから抜け出した」と言われたのです。 「 親亡き後、誰が守ってくれる?」  もう一つは、やはり「親なき後」の問題です。  アンケート調査の中でも多くの不安が寄せられていましたが、聴き取りの中では、お母さんの声としても、障がい当事者の声としても、多くの悲鳴のような訴えが寄せられています。  無理心中事件が他人事ではないと思いながらの日々を過ごしているという声が少なくないのです。この問題については、私たちの会の条例班でも率直な意見交換がなされました。  親なき後の問題は、母子分離ができていない母親の問題でもあるとの指摘に対して、母親以外に誰がわが子を守ってくれるのか、親戚も行政も誰一人として助けてくれないという状況の中で、誰も信頼できないという母親の思いは、自分が駄目になった時は、この子も生きてはいけないという考え方にならざるをえないとの意見が出されました。 「 自立の最大の壁は親」の声も  こうした意見に対して、当事者を代表して、代表世話人である宮西君代さんから「自分たち脳性マヒの当事者が自立していこうとする時の最も大きな壁は親だった」との発言もあり、この問題は、色んな立場から議論していく必要があるのだということが、よく理解できました。  別府市にある重症心身障がい者のディケア施設「地域支援センターほっと」での聴き取りでもこの問題が熱心に話されました。  こうした話合いを継続していくなかで、私はこの「親なき後」の問題をみんなで考えていくことにあたっては、 @ どうしてお母さん達は、自分が駄目になったら、この子は生きていけないのではないかと思い込まされてしまうのか。 A 親なき後の問題を解決するには、どのような施設や人とのつながりが必要とされるのか。 という2つの側面を徹底的に議論する必要があると思っています。  この条例作りの運動は、こうした、お母さんたちと私たちとがつながりあう場でなければなりません。 励ましとメッセージ込めた条例に  以上のような様々な活動を続ける中で、私たちが目指すべき条例のイメージが少しずつ湧いてきたように 感じています。  条例では、前文を大切にしたいと思っています。だれもが安心して暮らせる大分県への私たちの思いを、お母さんたちへの励ましを、障がいの故に閉じこもり、一人だと感じ、声をあげたこともない当事者へのメッセージを前文に託したいと思うのです。  そして、私たちが必要だと思う合理的配慮の数々を網の目のように積め込み、詰め込んだ条例を作りたいと思うのです。  条例作りは、2年目に入ります。  いよいよ形を作っていく作業が始まります。  力を合わせて、夢を実現しましょう。 第8面 言わせちょくれ E 見出し 「優しい大分に!」 大分市 元記者 小川 彰 本文  今回は、自分の実体験を基に、障がい、障がい者という問題を考えてみたい。  五月下旬、大分市郊外の店舗駐車場で見た光景。掲示パネルには「良心スペース それでもあなたは停めますか?」と、かなり刺激的な表現。横には車いす利用者や妊婦の絵。さらに、そのスペースの入り口には「お手数ですが、ご連絡下さい。店内電話番号○○。すぐにお伺いします」のパネル。車いすの路面表示だけでは限界があったのだろう。同店の断固とした姿勢に敬意を表する。  大型店舗の広々とした駐車場。正面玄関近くには路面に車いすを描いた身障者用スペースを多数確保し、所によってはスピーカーで協力を呼びかけるケースもあるが、車が混んでくると平気で無視する運転者も。今一度、我が身を振り返ってみようではないか。  私の四十年間に及ぶ記者生活の中では、数多くの「情けないやら悲しいやら」の思いもしてきたが、今回のテーマに沿う二つに絞って述べさせていただく。いずれも昭和六十年代前半のこと。  大分市を走る臨界産業道路の大分商業高校斜め前に、立派な県総合社会福祉会館が完成。併設する県身体障害者福祉センターには、体育館や温水プールも備わっている。何回か取材で通っているうちに妙なことに気付いた。そんな福祉会館を取り巻く点字ブロックの上に、行事の有無にかかわらず同じ車が停まっていることだ。  不審に思って注意していると、何とほとんどの車が職員の車。写真を撮りまくり、福祉会館側に取材。物証がそろっているだけに平謝り。翌日の社会面トップには「福祉の殿堂が、何たるありさま」の大見出しが踊った。その後、点字ブロック上の“不法占拠”はピタリと消えた…。  昭和の終わりの頃は、国鉄の「分割・民営化」という大きな歴史の歯車が回る時代だった。大分鉄道管理局(JR大分)を担当していたある日のこと、「○○駅(かなり以前のことなので名は伏せる)で車いすの利用者が一階からホームまでエレベーターで行けるようになった」という一報。さっそく現地へ。確かにエレベーターに乗ってはいるが、荷物と一緒。荷物を運ぶエレベーターに同乗できるという話に、何かもの悲しくなった事を覚えている。  話を現代に戻す。県都大分市では、大分駅高架化と同時に大分駅の南北軸を起点として中心部の新しい街づくりが始まっている。これから新大分駅ビルづくりも進むわけだが、すでに一部が完成した駅内のトイレが車いす利用者には使いにくいようだ。「障がい者の訴えをもっと聞いてほしい」との切実な声も相次ぐ。  唐池恒二JR九州社長が、分鉄局の人事課長時代、親しく取材させてもらった。そのよしみで一言。「唐池さんよ!。障がい者のことも十分、配慮してくれよな。できたら新大分駅ビルは、日本で最も障がい者に優しい駅にしてほしい。お頼みします」。この会報が唐池社長の手元に届く可能性はゼロに近いが、“もし届けば”の願いを込めて。  障がいや障がい者の問題は、個々の病気やけがなどによる能力の喪失や減少という把握のレベルから、社会の側の制度や配慮の欠如や無理解によるものだという把え方に大きくカジを切ろうとしている。  会報の頭を飾る「わたしも あなたも」。改めてかみしめようではないか! 写真 「良心スペース−それでも、あなたは停めますか?」の文字がある駐車場のパネル 以上