「だれもが安心して暮らせる大分県条例」をつくる会 ニュースレター「わたしも あなたも」 第7号(全8面) 2012年9月1日発行 連絡先 住所 大分市都町2丁目7−4 303号 在宅障害者支援ネットワーク 電話・FAX 097−513−2313 メール info@daremoga-oita.net ホームページ http://www.daremoga-oita.net 第1面 見出し だれもが安心して暮らせる大分県条例をつくる会 第2回総会 2012年7月8日(日)、大分県消費生活・男女共同参画プラザで開催 シンポジウム「家族から社会へ」報告 パネリスト6人一人ひとりの写真とともに、それぞれの方の一言を紹介 宮西君代さん(50)(脳性まひ) 「差別をしない社会が、だれもが安心して暮らせる社会。障がいを持つ子どもが生まれても、心から「おめでとう」と言える社会に!」 県盲導犬協会会長 湯澤純一さん(62)(視覚障がい) 「視覚をなくしても、生きていればいいことがある。障がいがあってもなくても、みんなが楽しく安全に暮らせる社会を実現したい。」 大分すみれ会副会長 川口二美さん(68)(長男が統合失調症) 「統合失調症は100人に1人か2人は発症する、ごく普通の病気。教育現場で正しい知識を教え、互いに励まし合える社会になってほしい。」 千住みなみさん(25) (肢体不自由) 「自分の苦しみよりも、親の苦しみの方が大きいのではないのかなぁと感じる。お母さんに、もう少し楽になってもらいたい。」 日本てんかん協会県支部世話人 安部綾子さん(65)(長男がてんかん) 「毎日苦労して涙を流し、強くならざるを得なかった母親たち。我が子を守れるのは自分しかいないんです。」 県自閉症協会会長 平野亙さん(56) (次女が自閉症) 「自閉症の次女がニコニコと笑って生きられる、障がいがない長女も自分の人生を全うできる社会をつくることが親としての務め。」 2〜3面 シンポジウム「地域から社会へ」の内容 見出し 「母と子の結びつき、そして親亡き後…」 本文 ●平野亙さん  今回のアンケートの中でも母親の声が圧倒的に多く、母親と子どもが一体化しているように感じる。私は自分の子どもに、いろんな社会からの支援に慣れさせたいと思っているので、母子分離ができないというのは怖いと思ってしまうのですが…。 ●安部綾子さん  私は、「あなた方は母子が分離できるような手段を講じてくれましたか?」と聞きたいです。多くのお母さんが、「うちの家系にそんな子はいない」と身内にも拒絶され、我が子は自分で守らなければと追い詰められています。  自分が元気なうちに、預けられる場所、頼れる所を探して託したいと思っているお母さんは沢山います。でも、今まで守ってきた命が、施設に預けたとたん事故などで奪われてしまったら…と考えてしまうんです。  一番つらいのは本人だということは分かっているし、本人以外のきょうだいのことも常に心配しています。そういうことも含めて、もう少し母親の気持ちを分かってください。 ●川口二美さん  精神障がい者を預かってくれる施設は県内に数えるほどしかなく、家族が抱えざるをえません。ほとんどの旦那さんは「関わりたくない、俺は働かんといけんのや」と言い、母親が全部かぶります。  母親は、本人が納得して毎日薬を飲めるようになるまで10数年間、つきっきりで薬を飲ませます。その薬で症状が改善すれば良いですが、病状が悪くなったときは地獄です。誰に相談して良いか分からない状態で、押さえつけるしかない。病院へ連れて行くことの大変さ。母親一人でできる事ではありません。 ●宮西君代さん  親が障がいのある子どもの面倒をみきれなくなったら、子どもを施設にいかせればいいということが社会の常識みたいになっている面があるような気がします。  どうして障がい者の親は、子どもを外に出せないのでしょう。健常者は学校を卒業すると、就職して親元を離れていくことが普通ですよね。でも、私達が一人暮らしをしたいと思ったら、最初に闘う相手は親。次は行政です。健常者にとって当たり前のことが、障がいのある人にとっては、あまりにも高いハードルであることを分かってもらいたいです。 ●千住みなみさん  自分の障がいについて悩んでいた時、責めるのは母親に対してでした。でも、今考えてみると、自分の苦しみよりも親の苦しみの方が大きいのではないかと思います。自分は自分の体なので受け入れるしかない。けれど、親は自分が生み出したということで、すごく苦しみながら生きているのだろうと感じます。もう少し、お母さんに楽になってほしい。  親から「あなたが生まれた時、一緒に死のうと思ったことがある」と言われたことがあります。何を言われているのか分からず、「とにかく殺されなくてよかった」と思いました。  アンケートの中で、あるお母さんが「この子の障がいが治るなら、自分の命と引き換えにしてもよい」と書いてあるのを見て、「障がいとはそんなにお母さんたちを苦しめているのだなぁ。障がいとはそれほど悪いものかな」と凄く考えさせられました。 ●司会者  親の立場の人と、若い当事者の発言が正反対に聞こえますが、実は同じ方向を向いています。お母さん達が悩み苦しみながら全部自分の身に引き受けて、ぎりぎりの所でやっていかなければならないという現状―。それを変えるには、お母さん達に対して「大丈夫。何とかなるかもしれません」という想いや言葉を、私たちがどれだけ届けられるかが第一歩のような気がします。条例づくりの中で、さらに突き詰めていきたいと思います。 ●湯澤純一さん  人間だれしも、歳をとると障がい者になります。私と妻の両親も高齢で病気と闘っていますが、私達には子どもがいないため、自分達が頑張るしかありません。  自分も親も、障がいから逃れることはできませんから、いろいろな制度を利用していかざるをえません。しかし、制度には問題点もあり、改善を要望していく必要があります。それらのこともみんなで協議しながら、いい条例にできたらと思っています。 見出し 「身内や社会の無理解」 本文 ●川口二美さん  統合失調症を発病すると、まず周囲から「母親の育て方が悪かったからだ」と言われます。そう言われると「あの時ああすれば良かった、こうすれば良かった」と母親は自分を責めてしまう。父親は社会に対して“身内の恥”としてひたすら隠します。母親は助けを求めたくても家庭のことで精一杯ですから、地域に理解を求める努力はほとんどできません。  この病気は昔からあるのに、どうして置き去りにされてきたのでしょう?100人いたら1人か2人発病する病気なんですよ!どんな症状が現れ、どんな治療法があって、最終的にどんな障がいが残るのかということを、学校教育できちんと教えてもらいたいと思います。  みんなが統合失調症のことを常識的に知っていて、例えば学校で友達がちょっとおかしいと思った時、「心配しなくても病院に行けばいい薬があるから大丈夫」などと、励まし合える社会になったらいいなあと思います。 ●宮西君代さん  世の中のお母さんたちが、幼い子どもに私たちの存在を隠そうとするから理解が進まない。子どもが「なぜこんな人がいるの?」と尋ねたら、「お母さんのお腹の中にいたときに病気になったからよ」と教えてあげてほしい。 ●寄村仁子さん(会場から)  家族でも当事者でもない人達がどうあればいいのかという視点も必要と思います。人間は、人を目に見えるものだけで評価しがちです。そんな見方から離れて、人間同士の付き合いをつくっていけるかが重要です。人を並べて、いいとか悪いとか、出来るとかできないとか、そういう評価からどう自分が自由になるか。それなしには解決できない問題なのかな、と思っています。 4〜5面 見出し 「本音トーク」 本文  今回の本音トークは、障害者自立支援法と介護保険制度の2つの制度の矛盾に着目しました。  介護保険制度の適用年齢65歳(国が指定する難病の患者は40歳)になると、障害者自立支援法よりも介護保険制度の適用が優先され、受けられるサービスの内容が制限されるなどの問題が生じています。第2回総会シンポジウムの中でも、湯沢純一さんが「国が施策を改善していく必要がある」と指摘しています。  実際に問題に直面しているお二人に、今の生活を伺いました。 衛藤涼子さん(65)=別府市=  先天性の骨形成不全症による障がい。数年前に同居していた母親が亡くなり、現在は福祉ホームで暮らしている。今年4月に満65歳になり、自立支援法から介護保険制度の適用となったとたんに、自己負担金(利用したサービスの一割)が一カ月あたり2万5千円アップした。  65歳になって最初の請求がきた時、驚いた。自立支援法では負担金ゼロだったのが、いきなり2万5千円アップ。障害基礎年金などの約10万円の収入に対し、支出は福祉ホームに支払う家賃と食費で約7万円、これに介護保険の一割負担分が加われば自由に使えるお金はなくなる。「サービスを切り詰めんと!生きていかれん」。ケアマネジャー(介護支援専門員)に相談し、自己負担金が1万5、6千円に収まるようにサービス量を減らしたため、ヘルパーにきてもらえる時間が短くなった。楽しみにしていたおしゃべりの時間もなくなった。洗濯機を回して干し終わるまでに時間が足りないことも・・・。「お金がないとヘルパーも満足に雇えんのよ。寿命があと1、2年って分かっていれば、くよくよ考えんでもいいのに」。親が貯めていてくれた貯金を切り崩して生活している。  移動支援の時間も月12時間から月10時間に減らした。1回、買い物に出れば2時間はかかる。体調が急変し、病院の付き添いを頼むかもしれないと思えば、使い切るのは怖い。「頭つかって、考えてサービスを使わんと!」。余暇に出かけようなんてことは考えられなくなり、福祉ホームでじっと時をやり過ごす時間が増える一方だ。  「(自分が)長生きしたら、本当に困るな、と思うよ。この先、消費税も上がると思えば好きな物も食べられん、我慢せんと。私はまだ良いほうよ。福祉ホームにも入れたしね。でも、私以上に困っている人はおると思うよ。でも、みんなどこに訴えればいいのか、分からんのよね」。制度に合わせて生活スタイルを変えざるを得ないという現実。不安ばかりが募る生活を強いる制度に矛盾を感じている。(インタビュー:藤原留美) 薄田(すすきだ)ミキさん(54)=大分市= 私は『1リットルの涙』で脚光を浴びた脊髄小脳変性症で、四肢機能障害があります。発症は6歳のとき。運動機能が徐々に低下する難病で、現在は電動車椅子で生活、両手は手袋をはめているような感覚です。 19歳〜30歳まで高千穂町役場の総務課に勤務し、結婚を期に大分に来ました。子宝にも恵まれ、周囲の力を借りながら主婦として頑張りましたが、やはり病気の進行には勝てず、40歳を迎えるころには家事のほぼ全てを主人に委ねるようになってしまいました。 そこで、障害福祉サービスの重度訪問介護を利用しようと市役所へ行くと、40歳以上の特定疾患者は介護保険が優先されると説明されました。 どうやら介護保険は、認知症の高齢者向けに作られているようです。私は家事援助を受けたいのですが、家族が同居している場合は身体介護しか受けられません。ですから、「食べ盛りの息子たちに美味しい手料理を…」という私の一番の願いは叶いません。 身体介護は、入浴や身支度など、私には必要ないものばかりです。ヘルパーは利用者の体に触れていなければならないそうで、洗濯物干しや掃除は一緒にやります。ヘルパーさんもケアマネジャーも事業所も、とても良くしてくれますが、望んでいないサービスを受けるのは疲れてしまいます。 介護保険の持ち時間を消化しなければ、最も必要な障害福祉サービスが受けられません。介護保険の時間を月内に使い切るために、体調が悪いのを我慢してサービスを受けることもあります。難病って本当に大変。普通の障がいだったら…と羨ましく思ったりします。 使い勝手の悪い介護保険が生活の一部に入り込むことで、私の生活は振り回されています。なぜ、人が制度に合わせなければならないのでしょう。制度を私に合わせることはできないのでしょうか。不思議でなりません。 自分で動ける間に、少しでも多くの経験をしたいし、別府の仲間と一緒に社会の役に立てることをしたいと一生懸命考えています。出かけたい時に出かけて、気の合った友人や仲間と話をすること、健常者なら誰でも当たり前にしていることです。 それなのに、私たち障がい者はアクションを起こす前に必ず、制度との相談が要るわけです。この気持ちはきっと当事者にしか分からないと思いますが、とっても窮屈で苦しいものなんですよ。 私に限らず、障がい者は65歳になったらみんな介護保険に移行させられてしまいます。私は障害福祉サービスと介護保険の接続が今のままであったら、安心して歳をとれません。 これから私がやるべきことは、多くの人たちと一緒に自由に生きる道を考えていくことだと思っています。ピアカウウンセラーとして多くの方々の悩みを聞き、より良い道を選択するお手伝いができたらいいなあと思っています。人生の主役は私自身、そして当事者自身なのですから。 ミキさんの一週間 月曜日●介護保険のデイケア 火〜金曜日●  朝1.5時間:介護保険の訪問介護  午後:重度訪問介護を使って大分や別府で活動 土曜日●重度訪問介護を利用して社会参加活動 日曜日●オフ (インタビュー:大戸佳子) 6面 見出し 「特別インタビュー「障害者基本法」はどう変わったの?』」 本文  障がい者施策の基本となる「障害者基本法」が昨年改正されました。条例にも大きな関わりがあるものです。そこで、「わたしもあなたも」第5号の特別インタビュー「国連『障害者の権利に関する条約』って何?」に続いて、「障害者基本法」の改正内容等について、2月23日の条例づくり班第2回勉強会で報告していただいた松下清高さん(世話人・大分市議会議員)にインタビューしました。 Q 障害者基本法が改正されたそうですが? A 2011年4月22日、国会に提出された「障害者基本法の一部を改正する法律案」は、6月16日に衆議院、7月29日に参議院で可決され、同年8月5日に交付・施行されました。なお、施行後3年を経過した時点で、改正等必要な措置を講じることも規定されています。 Q なぜ、障害者基本法が改正されたのですか? A 障害者の自立及び社会参加の支援等のための施策に関し、基本理念や国、地方公共団体の責務等を明らかにした障害者基本法は、1970(昭和45)年5月21日に施行されました。その後、2004年に、社会情勢等の変化に伴い、目的、障害者の定義、基本理念等が大幅に改正されました。しかし、2006年に国連で「障害者権利条約」が採択され、2008年に発効しましたが、我が国で批准するためには、障がい者施策に関係する様々な法律等の整備が必要となっていました。前政権時代から、本法改正の動きがありましたが、2009年の政権交代に伴い障がい者制度改革の動きが加速され、障がい者当事者などを含む「障がい者制度改革推進会議」の中で、「障害者基本法改正等についての提言」等が出され、改正案の提出となったものです。 Q 改正された主な内容を教えてください A まず法律の目的です。これまでは、「障害者の自立と社会参加の支援」を基本理念としていましたが、改正により「全ての国民が障害の有無にかかわらず、等しく基本的人権を享有する個人として尊重される」と謳(うた)われました。また、2点目は障害者の定義で、これまでは「身体、知的、精神のいわゆる3障害」となっていましたが、改正により「発達障害を含む心身の機能の障害がある者で、障害及び社会的障壁(しょうへき)により日常生活や社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」と規定されました。そして3点目は、「障害を理由とした差別の禁止」に関する規定が盛り込まれたことです。その他、「地域社会における共生」等や「言語(手話を含む)」等の意思疎通の選択の機会の確保などが新たに設けられています。 Q 大分県条例づくりとの関係はありますか? A 今回の改正内容については、我が国の障がい者団体で構成される「日本障害フォーラム(JDF)」が指摘するように、内閣府の「障がい者制度改革推進会議」がまとめた「障害者制度改革の推進のための第二次意見」の内容と乖離(かいり)があり、障がい者当事者や関係者にとっては十分に満足できるものではありません。しかし「大分県条例」づくりにとっては活用すべき点がいくつかあると考えています。障がい者の定義について、これまでの“医療モデル”から“社会モデル”の観点を反映させたこと、“社会的障壁”を取り除くための“合理的配慮”など、限定的とは言え「障害者権利条約」を一定程度踏まえたものとなっている点があります。また、地域社会における共生をめざしていること、差別の禁止規定なども重要だと思います。この改正障害者基本法や2012年10月に施行となる「障害者虐待防止法」などをうまく組み合わせながら、「大分県条例」の内容に反映、利活用できるよう議論、検討していくことが大事ではないかと考えます。 7面 見出し 「条例づくりは大分県のデザインづくり」 わたしたちのめざす社会、そのかたち 共同代表 平野 亙 本文  条例づくりは、私たちが暮らすこの大分県をどのような社会にするかという、社会のデザインづくりです。そのデザインは、障がいの「社会モデル」、つまり、本人の特性に対する社会のあり方が障がいを生みだすのだという障がい概念に基づくものになります。  これまでに寄せられた悲痛な声に応えるために、私たちがまず考えなくてはならないことは、障がいをもつ人とその家族の抱える苦しみを放置してはならないということです。そのためにはまず、今ある問題を具体的に解決するための支援や苦情解決の仕組みをつくらなくてはなりません。また、だれでも、身近な場所で、どんなことでも親身に相談にのってもらえるような仕組みも必要です。このような仕組みには、専門家や行政だけでなく、障がい者や家族など当事者が加わっていくことになるでしょう。  これまで孤立無援で、他人を頼ることができなくなってしまった家族や障がい者には、共感と支援のメッセージを送らなくてはなりません。それは、社会のあり方を変えるのだという私たちの決意です。障がいをもっていることや障がい児を生んだことを、恥や重荷に感じさせる社会は、醜く歪んだ社会です。この条例が、そんな社会を変えていく契機にならないといけないのです。社会を変えるには時間が必要でしょう。一人ひとりの思いと価値が尊重され、だれでも「必要な社会の助けを借りて自分らしく生きていく」という当たり前のことが当たり前とされる社会をつくっていくための運動を、この条例から始めることになります。  どんな人も、自分らしく生きたいと願っています。障がいがあろうとなかろうと、その願いがかなえられるよう支援を惜しまない社会になるために、私たち県民が、どのような大分県を作っていくのか、この条例にその方向性を示したいと思います。 見出し 行事案内「9月30日 第10回世話人会 ご参加ください」 本文  「だれもが安心して暮らせる大分県条例をつくる会」は9月30日(日)に、大分市のコンパルホールで第10回世話人会を行います。  7月8日の第2回総会で出された皆さんの声を受けて取り組まれている「条例案」づくりの今を報告し、「条例案」に対する皆さんのご意見をお聞きして反映していくための重要な会議になります。ぜひご出席ください。   と き 9月30日(日)13時30分から   ところ 大分市 コンパルホール 4階 視聴覚室 ○条例づくり班は9月21日(金)18時30分からコンパルホール303会議室で、条例案づくりの作業を行います。 8面 見出し 言わせちょくれ F 「明るい未来へ!」 大分市 元記者 小川 彰 本文  佐伯まで足を伸ばした。いつもなら高速だが、行きは国道10号、帰りは津久見、臼杵と県道の山越え。山越えは実に久しい。  佐伯の五所明神社と南海病院の間を流れる小さな川。伯父が南海病院の医師をしていた小学生の頃は、夏休みを待っていたかのように伯父宅に転げ込み、連日フナ釣り。あまりに勢いよく竿を振り上げるものだから、糸や針がすぐ桜の木に引っかかり悪戦苦闘。佐伯までは生まれ育った別府から汽車で往復。トンネルがやたら多く、二十以上はあった。最後のトンネルを抜けると突然、佐伯の町。  今回は半世紀ぶり(決してオーバーじゃない)に、その川を目にしてビックリ。川幅は広くきれいに整備され、岸辺は「歴史と文学の道」。防災、景観、観光といった側面も理解できるが、筆者には、昔の川が無性に懐かしい。  昭和十六年十一月十八日。連合艦隊機動部隊が山本五十六司令長官らに見送られ、真珠湾攻撃を胸に秘め出発したのが佐伯湾だった。十二月八日未明、真珠湾急襲、太平洋戦争に突入。日本人だけでも三百万人もの命を失った。敗戦後、平和憲法が制定され、沖縄返還も実現したが、現在に至っても米国(軍)の言いなり(欠陥機オスプレイ問題も然り)ではないか。その辺りは、北康利著「白洲次郎 占領を背負った男」=講談社=を読めば明快であろう。  佐伯から山越えを走っていると、津久見の町がパッと開けた。今は信じられないが、三十余年前までの津久見の町は、セメントの原料となる石灰石の粉塵で真っ白け。当時の“セメント城下町”の宿命だろう。その後、公害防止の声やセメント工場の汚染防止技術も向上し、きれいな町並みに・・・。  その津久見で今年に入り、一騒動。東日本大震災で発生したガレキの処理要請だ。被災地のため、ガレキの処理が必要なことは十分承知している。だが、放射能汚染などに対する政府や電力会社の説明やデータが全く信頼できないのだ。半年以上、市民を二分したにらみ合いが続く中、突如、要請の撤回。無用な対立を余儀なくされた市民は不幸極まりない。一体、どう“総括”すればいいのか!  また一山越え臼杵へ。歴史と伝統に包まれた町。今回は大友義鎮(宗麟)に絞って、ブラリ散策。義鎮が府内(大分市)で戦国大名として勢力を誇っていた一五五一年、フランシスコ・ザビエルが府内を訪れ、義鎮は布教を許可。多くの外国人宣教師が府内へ。キリシタンも一気に増え豊後だけでも数万人に達した。一五五六年(有力説)、義鎮は臼杵城を築き、府内を息子に譲り入城。宗麟と号し、入信した。  その宗麟の足跡をわずかでもたどるため、臼杵から九六位山を越え、大分の宮河内へ。さらに鶴崎方向に進むと、葛木地区にある県キリシタン殉教記念公園に到着。  宗麟の死後となるが、秀吉は宣教師追放令を出し、さらに家康は一六一四年禁教令を発し、徹底的なキリシタン弾圧に乗り出した。この葛木地区にはキリシタンが多く、一六六一年から一六七三年にかけ、八十四歳の翁から十四歳の少女まで約二百人が殉教の血を流した―と記念碑にある。  葛木地区は、かって“獄門原”と呼ばれるほど多数の殉教者を出した。ある古老は「以前、近くで小さな団地開発のため谷を掘ったところ、白骨が多数出てきた。処刑されたキリシタンの白骨ではと噂されたもんじゃ」。  歴史は時として残酷だが、今を強く生き抜き、明るい未来を共に築こうではないか! 写真「大分県キリシタン殉教記念碑」 以上全8面