第1号別冊 「千葉県からの報告」特集 2011年7月29日 障害がある人たちへの差別をなくすための条例づくりは、千葉県から始まりました。この6月には熊本県議会で可決され、現在4道県で制定されています。大分県の条例づくりをスタートさせるにあたり、千葉県障害者差別をなくすための研究会座長として「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」制定の中心的役割を果たした野沢和弘さんをお招きし、「条例のある街〜千葉県からの報告」についてご講演いただきました。講演内容(抜粋)とその後の千葉県の取り組みについて特集します。(講演の全文は現在準備中のホームページで紹介する予定です) 2011年6月4日・大分市「アイネス」「だれもが安心して暮らせる大分県条例」をつくる会結成総会記念講演 「条例のある街〜千葉県からの報告」 講師毎日新聞論説委員野沢和弘さん 障害者の現状は ―東日本大震災のなかで 「だれもが安心して暮らせる大分県条例をつくる会」の結成総会にお招きいただき大変光栄に思っています。私は毎日新聞の記者をやっていますが、長男が知的障害と自閉症という障害を持った家族として、これまで24年間過ごしてきています。この前、瓦礫と化した東北大震災の現地を回り、全国から来たいろんな障害者関係の支援者を取材しました。そしたら障害者の安否確認も全然できてないという。最初支援者が避難所に行ったらどこの避難所にも障害者がいないという。何故なら、被災して避難している所にいられない、暮らしにくいから結局、崩れかけた自宅に戻ったり、自宅の前の路上に車を停めてその車の中で何日も過ごしたり、或いは通所施設に家族ごとお世話になったり、親戚に頼って遠い所に疎開したりして今、かろうじて暮らしているのだという。その話を聞いて私は、大変な状況に一番しわ寄せになる人たちのことを社会全体が包んでいくような、そんな社会にして行かなければいけないと改めて思いました。 “白い目”を避けないで 私が住んでいる千葉県浦安市も、液状化があって10日ほど断水し、風呂も使えず隣の東京都内の銭湯にうちの2人の男の子を連れて行きました。そしたら自閉症の兄が慣れていないものだからパニック状態になって、更に高校生になったばかりの弟は恥ずかしがってバスタオルを巻いて湯船に入ったりするものだから非常に冷たい目で見られていました。ただ、そういう時にも隅でその様子をじっと見ていたお年寄りが「この子は障害があるのだな」とわかって自分の場所をズラして「ここ使いな」と言ったりしてくれました。やはり世間には白い目がありますけれども、私は人の情みたいなものを信ずるしかないのだな、白い目を避けている限りはやはりその相手に理解してもらえない。こちらからもっともっと社会の側に踏 み出していかなければいけない。そういうなかから本当の理解とか信頼とかが生まれてくるのだなと感じたりしました。 福祉が変わる ―官と民が共同で 千葉県は福祉が非常に遅れ、昔から保守的な地盤でゴルフ場とか産業廃棄物処理場ばかりをめざすような県で特に障害者福祉については大きな入所施設や大きな精神病院はあるが地域で暮らしていくような施設が殆どないような県でした。ところがそこに2001年の知事選で女性の堂本知事が初当選したのです。堂本新知事は福祉の遅れにびっくりして2つの方針を打ち立てました。 その一つが、縦割り行政の弊害をなくそうと各分野を横断的にやっていく。同じ地域で暮らしているお年寄り、子供、障害者、特に障害者の中についても身体、知的、精神――各分野で細分化されている縦割り行政を横断的にした方がよいのではないか、その方が早いのではないかと。 もう一つが、政策立案段階から官と民が共同でやって行きましょうと。福祉の基本計画を作る時は、まず市民が作業部会を担ってやっていく。県庁職員は殆ど口を出さないでじっとその議論を聞いている。文案の細部まで市民がチェックして最後まで市民がやっていく。このやり方はほかの自治体や国でも、市民を招いて審議会を立ち上げ諮問、答申という形で従来からあります。しかし千葉県の場合は一番切実にニーズを持った人たちに参加してもらっていろんな意見を出してもらおうではないかという事で、平日の夜やるのですね。そうすると関係する県庁職員が夜まで市民の相手をして会議が終わっても、夜中までかかって資料を作るなど大変でした。 「自分たちで政策を作る」姿勢で 作業部会の最初はギクシャクしました。市民の側は行政側に質問や愚痴ばかりですね、或いはいかに自分たちが大変な思いをしてきたかという恨み辛みみたいなものばかりでした。行政の人たちは後ろの席でうんざりした顔で聞いていました。 これではいけないという事で、我々の側も質問をやめよう、自分で意見を言おう、自分たちで政策を作るのだという自覚を持とうということにしました。すると段々良い意見も出るようになって、行政の人たちも辛抱強くそれに付き合ってくれて、少しずつ噛みあって行きました。 部会には知的障害者が2人参加していて最初はなかなか会議に対応できません。難しい言葉と議論のスピードについて行けず自信を失っていました。その時、当時厚生省から出向してきた若い障害福祉課長さんがこれではだめだと思って会議の資料にルビをふりました。その課長さんはまだまだだめだというので会議の開かれる前の週の日曜日に自ら資料を抱えて知的障害者の住んでいるグループホームに赴き、マンツーマンで4時間ぐらい時間を掛けて予習をしたそうです。そうしたら彼らも理解が深まり自信をもつようになって、何とか自分たちも頑張らねばと、良い意見を沢山出すようになりました。我々他の委員たちも非常に刺激されて、いつも彼らの存在を意識しながら発言し、どういうふうに受け止められているだろうか絶えず意識していました。 1年半後に分厚い障害福祉計画ができました。その中で、ほんの数行ですけれども、国が障害者の差別禁止法を作らないのであれば千葉県が独自に条例を作ろうじゃないかと盛り込みました。 答申を受けた堂本知事は計画案から4つ優先的に取り組みましょうという事になり、その中の一つが条例づくりだったのです。その時の知事の意向としては障害を持った本人やその家族を中心にしてじっくり、時間がかかってもいいから条例原案をゼロから手作りで作ってもらいなさいという指示だったそうです。 「研究会、タウンミーティング」で学ぶ 堂本知事の指示を受けて、県障害福祉課は差別をなくす条例をつくりたいので「研究会」を組織する、そこに参加したい人は申し出てくれと「一般公募」を掲げたんです。障害福祉関係者、企業関係、労働関係などかなりの人が手を挙げてくれました。条例づくりの発案者が私だったものですから私が座長を引き受けました。ところが大変でした。最初は自分たちの障害がいかに大変だったか、いかにひどい目に会ったかを、これでもかこれでもかと出すわけで議論にはならなかった。ほかの委員たちは下向いて黙って耐えているというそんな感じで非常に殺伐とした空気でした。なかなか議論は進まないし、中には冷ややかに見ている人もいました。「こんなに豊かな時代になったのに差別なんか一体どこにあるのか」「そんな観念的なことをやっていてもこの世の中誰も注目してくれないのではないか」と言われました。 それではということで、実際に障害を持った本人や家族がどんな差別を受けているのか聞こうじゃないかということで、「差別について教えてくれ」と県民に声をかけたのです。HPでも呼びかけました。最初は集まりませんでした。何なのだろうか、差別なんかないのかなあと最初思ったんです。 ところが違うんです。――“差別”と最初に言ってしまうと、悔しい思いを一杯してきた人たちにとってそれが果たして差別なのかなあとハードルを自分で作ってしまうんです。次に「差別かどうかわからなくてもいい。とにかく腹が立ったこと、悲しかったこと、悔しい思いをしたこと、何でもいいから教えてください」と・・・。 800超える事例―教育・福祉・医療・労働など みんな、あるんです。当たり前ですよね。そんなこといちいち覚えていたのでは日々の生活が出来なくなるので忘れるんです。或いは記憶の奥に閉じ込めているだけなんです。もう一杯出てきました。気がついた時には全部で800いくつかの事例が集まりました。それを教育、福祉、医療、労働など分野ごとに分類して我々29人の委員がひとつひとつ、差別といえるかどうか、なぜこんなことが起きるのか、どうすればこんなことが起きなくなるか、解決できるのかなど皆で話し合いました。 さまざまな事例が寄せられました。千葉県ならずとも他の県でも、たぶん大分県でも沢山出てくると思いますね。それを当事者が言わなかったり忘れたりしているだけなんですね。 例えば、日本では分離教育が原則で、障害児が学校に上がる頃になると教育委員会からどうしますかと言ってくる。「うちの子は障害があるのですけど普通学級に行かせたいのですが」と言うと「お宅は普通ではないのだから」と差別的な一方的な言い方をされたり、「登下校だけでなく休み時間も付き添ってくれ」と言われ、その母親はワゴン車を校門の横に停めて一日中ずっとワゴン車の中で過ごし、授業が終わりチャイムが鳴るたびに教室に出かけて行って障害のあるわが子の面倒をみているという例もあります。 “思いも及ばない思い”に気づく 町を歩いている時に突然知らない人から追いかけられて、胸ぐらつかまれていきなり殴られたという経験のある方いますか?或いは満員のエレベーターに乗り込んでいたら、乗っていた人たちから嫌な顔をして一斉に睨みつけてきて「早く降りろ よ!出ていけ!」と言われたのです。そんな経験のある人いますか。研究会の席上、ある聴覚障害者の方が発言しました。 道を歩いている時に、道を尋ねられたかキャッチセールスかに声を掛けられたのですが、彼は聞こえないものですから困ったなとスタスタと行って避けようとした。「何でこちらが頭を下げているのに無視しているのか」と因縁をつけられたのですね。また、聴覚障害者が満員エレベーターに乗り込んでいくと重量オーバーのブザーが鳴ってドアが閉まらず、「最後に乗って来たのはあなたなんだからあなた降りなさいよ!皆迷惑しているじゃないか、この音が聞こえないのか!」と。「降りなさい」と言っている人達は差別をしようと思ってやっているわけではなく、聴覚障害のある人は、どうして自分ばかりそういう目に会うのかもわからない。やられる側は何時そういう目に会うか分からないという独特の緊張感とか疎外感とか我々の思いも及ばない思いを持って生きているのだろうという事を、その時思いました。 野沢さんのお話は、私たちの想像を超えた世界を浮かび上がらせ、障害や差別の本質に迫っていきます。その一つ「視覚障害者が多数の街の市長選」を紹介ます。 そして野沢さんは、最後に次のように結びます。 障害者が社会を良くしていく! これまでのこの国は成長や成功に非常に価値観を置いて来ました。(村上春樹流にいうと“効率”)しかし世界最先端で高齢化が進み、暮らしにくい人がどんどん増えてくる。その中で成長や成功だけを唯一の価値とする社会は成り立たないと思う。これからは暮らしにくい、いろんな弱いものを持った人たちがそれぞれ社会に刷り込んでいくような、むしろ成熟――いろんな価値観を認め合って、むしろそんな価値観を楽しみあうような余裕のある成熟社会をこれから作っていく必要があるし、そのためにも我々のこうした取り組みと言うものが大きな資源になる筈だと思います。 障害を持った人達が、地域でどんな暮らしにくい思いをしてきたか一番良く自覚している人達であり、それを何とか解消していくために一番多くエネルギーを費やした人達です。それが、これからの社会全体の大きな課題を担う大きな大きな資源になってくると私は確信しています。障害者だけが良くなっていくということはあり得ません。障害者が社会を良くしていくのです。良くなった社会の中で障害のない人もある人も幸せに生きていくという事を目指さなければいけないと思います。