2011.4.27大分コンパルホール「県条例つくる会」第4回実行委員会学習会より 講演「障がいとは 差別とは〜八王子市条例案を参考にしながら」 徳田靖之代表世話人 これからお話したいのは、県条例づくりに際して、私たちが共通に踏まえるべき事柄を皆さんと整理 しておきたいという事です。具体的には障がいとはいったい何なのだろうか、障がいに基づく差別とは いったいどういう事を指すのかということです。ここをきちんと理解しておきませんと条例づくりに於 いてその幅が非常に狭いものになってしまう感じがします。今日は、今、八王子市の方で当事者団体が 中心となって八王子市に対し請願している「だれもが暮らしやすいまち八王子市条例(案)」を例にと ってお話したいと思います。 医療モデルと社会モデル 障がいを定義するときに、今、整理する仕方として医療(医学)モデルと社会モデルというのがあり ます。医療モデルというのは、障がいは個人の属性、医療的に見たときにその個人個人に病気があると かケガをしているとかそういったことによって起きていることに着目し、障がい者個人の問題としてい るのが医療モデルです。これまではずっと医療モデルで「障がいとは、障がい者とは何か」と規定して きました。 そこでこのように規定してしまうと次の二面性が出てきます。一つは、障がいというのはその人が障 がいを持っているのだからどんなに困っていてもその人自身にとっては「自分には仕方がない」という ことになる訳です。そして更に、そこから社会の側から何かをしてあげようとするとそれは「社会の側 からの恩恵」、お気の毒ですから社会の側からそのハンディキャップを補ってあげましょうという考え 方にしかならないという事です。そこに今までの医療という面からしか障がいの問題をとらえられない という問題があったわけですね。 それが世界的には、特に欧州を中心にして「発想を変えましょう、障がいという問題を良く考えてみ たら、個人の属性だけで社会的なハンディキャップが生まれているわけではないでしょう!」という考 え方が出てきた訳です。それが社会モデルと呼ばれているものです。社会の側が、制度的未整備、或い は物理的に何らかの障がいがある、或いは社会の無理解・・・そういったことがあるために、いろんな 社会生活をする上でハンディキャップになっている状態を障がいと考えるべきではないか、という、こ れが社会モデルという考えです。 一番わかりやすいのは、例えば、私は英会話はできません。私が英語圏に行ったとします。そうしま すと私は全く誰とも会話が出来ない。そこで通訳がいないという事になると私は外国に行った時には“ 障がい者になる”。こういう考え方がこの社会モデルなのです。 今、世界の多くの国が批准している“国連障害者権利条約”があります。ここでは「手話は言葉だ」 という位置づけがされました。私たちが普段使っている言葉のほかにもう一つ、手話は言語だというこ とになります。そうすると大勢の聴覚障がい者の中に私が入り、手話通訳の人がいないと私は聴覚障が いの人たちと会話が出来ない。そこで私が障がい者という事になるわけです。つまり社会モデルという 考え方は、社会との関係で、その人がそこの社会の他の人たちと同じような行動、同じようなサービス 等を受けられないという原因が社会の側にある。それが.にそのハンディキャップを負うという考え方 に立つというのが社会モデルという考え方です。 しかし医療モデル、社会モデルと分けて考えてしまい全部が解決するかというと必ずしもそうではな い。やはり個人の属性として被っているハンディキャップというのが大きいわけです。大きいですけど 障がいという問題を医療の側面、個々人の持っている機能という側面だけを見ていてはだめだというの がこの社会モデルという考え方です。 “壁”をなくすのは社会の務め この問題提起を受けて、例えば八王子市条例案では障がいの問題をどのように条例の中に書き込んだ かといいますと、(八王子市条例案は)表現が難しいのですけれど、その第3条に“定義”というのが ありまして「1、 障がい この条例で差別禁止にかかる「障がい」とは、差別の契機となる以下のい ずれかの事項を言い…@(個人の属性)機能障がい、能力障がい、形態障がい、その他一般的とされな い心身の特徴や状態A(障壁の存在)前号の属性を有する個人の受け入れを拒む物理的、社会的、制度 的障壁の存在B(社会的態度)前@号にかかわる属性そのものに対する無知、無理解、偏見…」 このように差別の契機となるのは一つが“個人の属性”で、二つ目が“壁”ですね。そういう個人的 な属性を有する個人の受け入れを拒む物理的、社会的、制度的な“壁“。先ほど私が出した例で言えば、 通訳や手話通訳者が配備されていない“壁”というものによって起こるのが障がいである。三つ目が“ 社会的態度”で、この三つによって起こるハンディキャップ、これを障がいという捉え方をしているわ けです。 このような形で社会モデルが具体化されてくると、社会の側が“壁”をなくしていく、或いは無知、 無理解、偏見をなくしていくということが社会自身の義務という形に変わってきます。つまり医療モデ ルの段階に於いては個人の属性というものが障がいという事の唯一の原因とされていますので、そこで 社会の側がその人たちがハンディを負うことなく何らかのことをするとすれば、それは社会の側からの (論点をはっきりするような意味で言いますけど)恩恵です。障がいという問題が社会的な壁とか社会 的な無理解によって生じるんだという捉え方をすると、これは将に“社会的な壁或いは社会的無理解を 除去する”ということは“社会の側の努め”という形に変わってくる。 “差別”のとらえ方が変わる この障がいという考えの捉え方が次に障がいによる差別とはいったい何だろうかという事を導き出す わけです。これはもう千葉県条例がいち早く採択をしたことなのですけれど今までは私たちは差別とい うといわゆる直接的な差別、障がいは個人的ないろんなハンディがあるという、そのことによって.利 益を被るが差別というふうに考えてきた訳です。今は、差別というのは、そういう直接的な差別以外に 間接的な差別、それから合理的配慮の欠如ということが出てきている。間接差別はなかなか理解しにく いのですけれど、一見したところ全然差別していないような条項を設けて結果的には差別につながると いうのが間接差別というものです。例えば誰かを雇う時、「自宅から通勤出来るもの」とか、教員採用 で「水泳のできる者」など、何となくそれでわかった条件を付けるのだけれども、実際には障がいのあ る人にはそれに当たらないというような条項を付けるケースがあり、これが間接差別といわれるもので す。 これは一見して差別という事がわかりにくいので八王子市条例案ではわざわざ間接差別という定義を 示し「2、障がいに基づく差別 この条例で「差別」とは次のいずれかに該当する行為を言う。・・・ ・@(直接差別)障がいに基づく制限・排除・分離・拒否などの異なる取り扱い。A (間接差別)形式 的には障がいに関係しない中立的な規定や基準の適応、或いは取り扱いが障がいのある人に異なる結果 を招き、または結果を招く恐れがある行為。B(合理的配慮の欠如)機会の均等を実質的に確保するた めに必要かつ適切な変更、調整、便宜の供不であって、特定の場合に必要とされるものを提供しないこ と」。このように「障がいのある人にとっては異なる結果を招く」というものを間接差別ととらえ、こ れも許さないということになっています。 一番の問題はこの「合理的配慮の欠如」という問題です。これが今回、大分県条例を作って行くとき に一番に私たちがしっかりと認識しておくことではないかと思っています。 例えば、駅で車いすで電車 に乗れないという状況があるにもかかわらず、車いすで電車に乗れるという事をしないという事は、こ れは合理的配慮を欠いているから差別になるという考え方ですね。今はいろんな所でありますが、例え ば、公共施設や人がたくさん集まる所で、車でしか移動できない障がい者の駐車スペースを必ず優先的 に一番出入り口に近い所に確保することをしないことは差別になるということが合理的配慮の欠如とい われています。 “合理的配慮の欠如” 私の友人というか私が尊敬している京都に竹下さんという弁護士がいます。この方は全盲です。彼は 大学受験の時も点字で受験して受かったのですが、私たちの国の司法試験は視覚障がい者を締め出して いました。彼は何度も何度も法務省に掛け合って、遂に点字で司法試験を受験するという道を切り拓い たのです。今、本当に日本でも最高のいろんな形での仕事に取り組んでいますけれど、視覚障がいのあ る人が司法試験を受けて視覚障がいのない人と同じように弁護士などになって行くという道を保障しな いという事、それは差別だということを本当にいち早く社会に問いかけた人です。 点字で勉強しないといけません。そうすると点字で勉強するには何が必要かと。点字で書かれた法律 の本がないと勉強できない。そこで彼は何をしたかというと日本のいろんなところに法律の本を読んで 録音テープを送って下さいと呼び掛け(多くは女性が本を読んで録音テープに起こす)それを彼は自分 で点訳して点字本を作って試験を受けたんですけど、そいう人のために点字の法律書を作るという事は 必要なことなんです。これをしないということ、これは合理的な配慮を欠くという事になるのではない か、そういう考え方に立って行くと、視覚障がい者であるという、確かに障がい者、、医療モデルによ ると障がい者に違いないのですが、その人たちが司法試験を受けて行く、或いは色んな自分がやりたい という事、社会に参加していきたいという事を保障するような制度が出来ていないという事は差別なの だ。こういう考え方に立つとずいぶん今までと状況が変わってくるのではないかというのが私たちが痛 切に認識している事です。 千葉県条例を初めて読んだ時に私が思わず膝を叩いたのはそういう思いがあったからです。 私たちが 大分県条例を作ろうと運動を進めて行く際に一番大切なことは、“合理的な配慮を欠いている状態は差 別なのだ――差別のない社会を作っていくうえでは、この合理的配慮を欠いているという状況を細かい 点から洗い出していく作業が必要なのだ“という事だと思います。 そのうえで八王子市条例案を是非一度読んでいただきたいと(一寸言葉が固いなという感じがしてい て大分県条例はもっと優しい言葉で作りたいと思っていますが)いろんな場面、細かくこうしなければ いけないと書いています。例えば先般あったような統一地方選挙。八王子市条例案の14条に政治参加 というのがあって、そこに合理的配慮義務という条項があって「第14条(政治参加)1、政治参加の 権利2、政治参加に関する差別の禁止3、合理的配慮義務(1)市及び選挙管理委員会は、投票の機会 と権利行使を保障するため下記の事項を含む必要な調整や変更の義務を負う。@投票所までの移動、投 票所内での移動の物理的障壁となるものを除去すること。A投票所内における設備、器具及び投票方法 を投票が容易なものに変更すること。B投票における負担を軽減するために人的支援を提供すること。 C選挙公報、政見放送及び投票に関する情報提供を、障がいのある人が選択するコミュニケーション手 段に対応したものにすること。D投票所による投票以外の代替的な投票方法が、障がいのある人に利用 可能な形態内容とすること。(2)…」 すごいでしょう!(特にCとDが)、Cは政見放送と書選挙公報を、例えば、視覚障がいの人であれ ば全部点字にして提供していく。障がいのある人が選択するコミュニケーション手段に対応することが 市の義務だと書いてあります。Dはつまり投票所に行かなくても、その人の障がいに応じて投票できる ようにすることが市の義務だと書いてあります。かって在宅投票制度というのがあって、これを廃止し た時に、これを憲法違反だという裁判を札幌の障がいのある人が起こした時に、憲法違反ではないとい う判例が出てしまったですけれど、八王子市条例案によれば在宅投票制度こそ、やらないことが差別だ という事になってくるわけです。 “条例づくり”に大切なこと そういう事を見てくるとですね、私が思いますのは、今回の条例を作っていく上で大事なことは二つ あるという感じがするわけです。一つは、こんなような思いをしたという、こんな.利益な取り扱いを されたという、そういう差別に対する怒りだとか.満だとかそういうものを本当にどんなに些細なこと でもいいから沢山出していただく、それが一つです。これを遠慮しないで出していただきたいし、いろ んな方々の声を聞く人達はこれを細大漏らさず聞き取ってもらいたい。!!もう一つは、先ほど竹下さ んの話をしましたけれど、私は本当はこうしたいんだ、こうあったらいいなあとずっと思っていたとい う夢とか希望とかをですね、これをどれだけ集められるか、私はどちらも欠けてはいけないという気が します。こんな嫌な思いをしてきたという怒りや.満というのをどれだけ沢山集められるかということ と同じ位に、夢とか希望、私はそれらを集めていくことがこの条例づくりではものすごく大切なことで はないかという気がするわけです。そのことがこの条例というのが、大分県内に暮らす私たちにとって この条例を作って行く過程が、明日につながっていくという感じが、私はするわけです。 ですから差別に対する怒りや.満を結集することとその夢や希望を集めていくというこの二つを、私 たちは合言葉にしながら条例づくりに取組んでいく必要があるのではないかと思っています。 くどいこ とをお話ししたかもしれませんが、そんなことを共通の考えとして進んでいきたいと思っていますので どうかよろしくお願いします。(拍手) 質疑応答 Q,基本的人権や環境問題などに対しては条例や規則はできるだけ少ない方がいいのではないかという 指摘もありますが・・・・ A 非常に根本的な所なのです。国際的には国連でいろんな条約が出ています。これは非常に進んでい ます。ところが日本の基本的な法制度はとてもついて行けていません。悪名高い障がい者自立支援法な どのレベルなのです。この障がい者自立支援法の考え方というのは先ほどから話をしている社会モデル を全然採用していないわけです。だから国際的な条約と日本の障がい者をめぐる法制度との間にものす ごいギャップがあります。この日本全体を変えていくときに、国連の障がい者権利条約ですら日本政府 はなかなか批准しようとしない、できないのですね。何.なら国内法が遅れすぎているから。この社会 モデルに立ったという法律が全然ないんです。それをどこを変えてやっていくかという試みの一つが千 葉県条例です。条例というのは一般的には「○○をするな!」というのがイメージで、多分質問者もそ ういうイメージだと思うのですが、私たちがこれから取組もうとしている条例は、まちづくり、都市づ くり、県づくりのいわば青写真というか「私たちはこんな大分県にするんだ」「こんな大分市や別府市 にするんだ」という青写真を僕らの手でつくっていこうというものです。ですから罰則とかはありませ ん。個人個人へ「こうしましょう」と呼び掛けは入ってくるのですが、個々人に罰則するとか、何らか の強制をするようなことはありません。しかし、行政には先ほどの八王子市条例案ではないですけれど も「こういうことをすることの義務を負う」という形で行政に“縛り“を掛けるというような中味にな るので質問者の心配は多分当たらないだろうと思います。 さらに、私が大事にしたいと思うのは“上か ら”こんないい条例をつくろうよ、というのではなくて、当事者の声を中心にして中味をつくっていこ うという考えになりますので、そういう意味では今まで条例などに抱いていたイメージとは180度違 うものになるのではないかという気がしています。 Q.確認ですが、罰則規程は設けないんですね A.差別の禁止というのが、この条例の基本ですが罰則によって差別を禁止するという考え方はとるべ きではない、そうではなくて社会をつくっていかないといけないと私自身思っています。 Q.当事者たちの声を聞く、今後のスケジュールは A.1年くらいかけて“声”を集めて行きたい。この会に出席できる人、出来ない人の声を求めて大分 県をいくつかの地域に分けて、場合によっては皆さんが1軒、1軒訪ねて、1年くらいかけて“声”を 聞いていくことだろうと思います。 〜END